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第2章 全米ツアー

第12期 異国へ行こう-メキシコ旅行

メキシコ

青空とヘルメット

巨大なサボテンはメキシコに多い。幹の部分はナイフも刺さらないくらい固い。
(バハ・カルフォルニア半島 3月)

 私の全米ツアーは、文字通り全米50州すべてに足を踏み入れたもので、どこが印象的だったかとよく質問される。夏のアラスカをはじめ印象的だった所は数多いが、北回帰線を越えたバハ・カリフォルニアの旅が最も強烈だった。
 一口で言うならば、異国を旅した実感が最も大きかったということだ。アメリカは合衆国で州が変われば別の国などと言われるが、カナダとの国境も含めて大した変化は感じられなかった。北米にはモータリゼーションをベースにした現代文明の香りがプンプンしたものだ。
 その点、国境を越え、一歩メキシコへ踏み込むとそこはまったくの異国だった。ほこりっぽい街、ポンコツ車、小柄な人々、スペイン語、無秩序な雰囲気…。
 渡米前、JAF(日本自動車連盟)海外部では、メキシコのモーターサイクルひとり旅はやめるようにアドバイスを受けた。つい先日も、トヨタのランドクルーザーで旅行中の人からの音信が途絶えたと言う。アメリカ国内においても、良いうわさは聞かなかった。必ず病気になる。物を盗まれる。警察が危ない。山賊が出る。はたまた、生きて帰って来れないとエスカレートする一方。
 怖くないかと聞かれるが、はっきり言って怖い。アメリカ、カナダでさえ不安だ。それに加え、モーターサイクルのサービス網の不備、言語問題、衛生環境、盗難がひとり旅にプレッシャーをかけてくる。さらに、警察が信用できないのだから困ったものだ。それでも、1月末のティワナ旅行でメキシコを見てみようと思い立ったのだから、やめるわけにもゆかない。
 こんな時は、古い日本のことわざを思い出すのが一番。
 「渡る世間に鬼はなし」。


バハ・カリフォルニア

1988年3月17日(木)晴れ

青空とヘルメット

ベターリビングセンターの仲間達。多くはライダーだった。
(カルフォルニア州 3月)

 ついに、LA生活にピリオドを打ち、旅に出ることになった。行き先はメキシコだが、アメリカ大陸最大の都市メキシコ・シティーではない。カリフォルニアの南、太平洋に突き出したバハ・カリフォルニア半島。2,000km足らずの細長い半島のほぼ南端にラ・パスという小さな街がある。一応の目的地は、このラ・パスとツーリスト・カード(メキシコ旅行許可証)に記入したものの、モーターサイクルの旅は移動そのものも旅の目的だ。
 バハ・カリフォルニア半島は、それ程有名な所ではないが、美しい所だと聞いていた。砂漠や山岳地帯の巨大なサボテンが見れると思うと胸が高鳴った。
 午前9時。友人達に見送られ、LAを後にした。
  気温25度だが、走り出すと寒さを感じる。タイヤ交換をはじめバッチリ整備したかいあってシャドー1100は絶好調。カメラ機材、キャンプ用品を中心に満載の荷物が背中にあたり、いや応なしに気分が引き締まる。
 サンディエゴを過ぎ、国境の手前で保険に入った。アメリカの保険はカナダでも有効だが、異国メキシコでは効かない。10日の予定だが余裕を持って12日分45ドル20セントを支払った。国境の町ティワナ(メキシコ)には毎日多くの観光客が押し掛け、にぎわっている。そのため保険屋も多く、手軽に加入することができる。また、72時間以内の滞在に限り、メキシコ旅行に必要なツーリスト・カードが免除されるので気軽に入国できる。それどころか、メキシコへ車で入国する際は、まったくチェックがない。一応料金所のようなゲートに係員がいることはいるのだが、止めているのは見たことがない。

 正午。
 サンディエゴ南のメキシコ国境に到着した。国境付近は、メキシコ人やアメリカ人が入り乱れ、にぎわいを見せている。アメリカ−カナダ国境にはない人間臭さがプンプンする。
 事前に領事館で入手しておいたツーリスト・カード片手にメキシコ・イミグレーションを探した。それらしい建物を探したが見つからない。それもそのはず。イミグレーションはなんとプレハブ小屋だったのだ。いくらメキシコでもひど過ぎる。
 係官の簡単な質問に答え、スタンプをもらった。滞在期間は20日とした。
 以前、日帰り観光を楽しんだティワナのダウンタウンをう回して、エスコンディド方面を目指した。国道1D号線はフリーウェー(交差点や信号がない一方通行の道路)に加え、トールロード(有料道路)だ。制限速度は時速110kmで快適。片側2車線と広くないが、交通量がグッと少ないので楽に走れる。久しぶりのツアーということもあって浮き浮き気分。通行料は1ドル60セント程で半島ではここだけ。アメリカ人旅行者向けか。
 エスコンディドの街中でチャイニーズ・レストランに入った。水を飲むことは危険なのでペプシコーラを注文した。缶ジュースはなく、すべて瓶詰。
 エスコンディドを過ぎると街らしいものはなくなり、農耕地を走り抜けるハイウエーになる。路面はわりと良い。アラスカハイウエーのように対面通行だが、路肩が極端に狭い。それでも時速100km以上でドンドン南下した。
 日が傾くにつれて寒くなってきた。初日ということもあり、サン・クインティンという小さな町のモーテルにチェックインした。ビールとスナックを買い込み、シャワーも浴びずに、ベッドに吸い込まれてしまった。
 自分では、かなり走ったつもりだったが、LAからやっと550km。半島の南端まであと1,500km以上ある。しかし、そこは完全なメキシコ。ティワナ(国境の街)のように日本語はおろか、英語を話す者もほとんどいない。


山岳地帯

1988年3月18日(金)晴れ

青空とヘルメット

メキシコ本土と半島に挟まれた海は非常に穏やかで美しかった。
(バハ・カルフォルニア半島 3月)

 6時半に起きて、即出発。少々、寒いが徐々に暖かくなってくる。昼過ぎには30度を超え、一足早い夏感覚。セーターやグローブをどんどんぬいでいく。
 バハ・カリフォルニアで道に迷うことはない。国道1号線を南下すればよいのだ。片側一車線のハイウエーが延々と続く。路面状態は良いのだが、路肩がないに等しいので走っていて気持ちが悪い。
 半島の中部はちょっとした山岳地帯になっていて、まったく海が見えない。アップダウンを含んだ高速コーナーがどこまでも続く。おまけにかなりの風が絶えず吹いている。長距離ツーリングはいつも片手運転だが、無数のコーナーと強風では不可能だ。
 ハンドルを押さえつけて走るため燃費も伸びない。燃費と言えば、ツアー前にガソリン供給に不安があったが、実際は何の問題もなかった。ややスタンド間が長いもののきちんと整理されていると言えるだろう。価格は、アメリカと同程度。日本と比べると3分の1程度だが、諸物価の安いメキシコでは割高感を覚える。ただ、メキシコでは有鉛ガソリンが主流で無鉛ガソリンが置いてない所があるのには閉口した。
 バハ・カリフォルニアで最も美しいのは、このあたりの山岳地帯かもしれない。日本で山岳地帯というと森林を連想しがちだが、この辺は基本的には不毛の土地だ。不毛と言ってもサボテンをはじめ、自然に適応した植物は生えている。雲ひとつない青空と平原や岩場に立ちそびえる植物群の織り成すコントラストは言葉では表現することはできない。
 車は思い出したころ、すれ違うだけのまったくひとりぼっちの世界。荒野の美の中を必死にシャドー1100にしがみつき、スロットルを絞る。聞こえてくるのは、かすかなエンジン音と巨大な風切り音だけ。これも、モーターサイクルひとり旅ならではのだいご味か。

 山岳地帯を抜けるとタイムゾーンを越えて時計を1時間進めなければならない。ここからバハ・カリフォルニア・スー(南バハ・カリフォルニア州)になる。
 700km程走った所で適当にホテルを探すことにした。これと言った予定もあるわけでもなく気軽なものだ。
 カリフォルニア湾側にあるムレゲという町は、メキシコの典型的田舎町と思われた。数件のホテルをはじめ、どことなくのんびりしている。妙にほこりっぽいのもメキシコらしい。車がやっとすれ違える道は当然未舗装で、トラックが通るたびにほこりを町中にまき散らす。
 何軒かホテルをチェックして10ドルのシングルルームを手に入れた。お湯のシャワーが使えるホテルはメキシコでも10ドル前後は覚悟しなければならない。アメリカ人旅行者向けのホテルだと30ドル以上する。そんなホテルは英語が通じ、アメリカ風のサービスが付く。
 私の泊まったホテルは白い壁が周りを囲むスペイン風の造りだった。中庭も広く、バーラウンジもあった。シャドー1100は裏手の路地から中庭に入れ、部屋の真ん前にチェーンロックして止めた。メキシコではモーターサイクルを建物の中まで入れるのは常識で、何の違和感もない。他にもアメリカ人ライダーがいて、情報交換に花が咲く。
 町の中を歩いてみる。別に怖いということはない。ほこりっぽい裏道に止まっているポンコツ車、安っぽいイスやテーブルの並ぶレストラン、昔かたぎの小汚い萬屋、街灯の下でサッカーに興じる子供達…、見たこともないくせに古い日本を思い出したような妙な気分になってくる。いつからあんなに急ぐようになったのだろうか。


平和な町ラ・パス


1988年3月19日(土)快晴

青空とヘルメット

文字通り平和な町 ラパス。海岸に面した公園はのどかな雰囲気。カメラをぶら下げて歩いていても危険を感じない。
(メキシコ ラパス 3月)

 LAを出て3日目。目的地のラ・パスまであと500km。北回帰線近くともなると猛烈に暑い。ガソリンスタンドで休んでいると、現地の人が何やら話しかけてくる。適当に相手をしているとやおらビールを飲めと瓶をつき出される。いくら飲んでもすぐ汗になってしまう。時間の流れがゆっくりに感じる。
 メキシコもメートル表示だが、アメリカ向けのシャドー1100はマイル表示のため燃費計算を間違えてガソリンスタンドの100m手前でガス欠。全米ツアー通算3回目だが、1リットルと予備ガソリンで事なきを得た。
 バハ・カリフォルニアで唯一の都市と呼ばれるラ・パスは都会的便利さとリゾート的ホスピタリティーを兼ね備えていた。文字通り(ラ・パスはスペイン語で平和)平和な町で、海浜公園でカメラを2台もぶら下げて歩いても、まったく不安を感じない。
 絵はがきを書いているとアメリカ人観光客が話しかけてくる。簡単な会話はジョーク交じりでもOKだ。まるで自分がアメリカ人になったような気になってくる。カルフォルニア州ナンバーのモーターサイクルに乗り、英語で会話し、値段もすべてUSドルに換算して考える。そして、メキシコではアメリカ人同様、外国人だ。
 10ドル以下では適当なホテルが見つからなかったので街はずれのYH(ユース・ホステル)に3連泊することにした。マネジャーはまったく英語がわからない人で閉口したが、筆談でなんとかなった。部屋は二段ベッドの4人部屋でクーラーなし。シャワーは水だけでバスルームも汚かったが、1泊3ドル50セントはありがたかった。

 3月20日(日)快晴のち曇り

青空とヘルメット

海岸の夕日。なんとものどかだ。
(ラパス メキシコ 3月)

 一日のんびりと市内見物。食事は屋台か、安食堂ですませる。スペイン語のメニューは読めないが適当に指差すと腸とすじ肉のスープとトルティーアがでてきてまずまず。
 20,000ペソ札(1,000円相当)で支払うと店のおばちゃんはお釣りを探しに表へ飛び出して行ってしまった。ちなみに料理が1ドル50セントでペプシ・コーラが20セント。
 夜は30セント支払って映画館へ入った。古いアメリカ製スパイ映画をスペイン語の字幕入りでやっている。ポルノは解禁になっていないようだった。
  異国で見る映画というのは映画そのものより、映画館の造りやシステム、客の反応を見るだけでも楽しい。時間のある人は旅先で映画館へ行くことを勧める。料金は極東の島国と比べるとタダみたいなものだ。

 3月21日(月)晴れ

 連泊だけあって毎日ゆっくり寝ることができる。
 半島南端の町カボサンルカスへ行くことにした。片道200kmと日帰り旅行にはちょうどよい距離だ。
 走っていても暑い。世の中には暑い所があるものだと改めて気付く。太陽がほぼ真上にあるように感じる。日本で真夏でもそう感じることがあるが、根本的に違う。走っていてシャドー1100の影を探したがまったく影が見つからないのだ。
 カボサンルカスは適当に観光化されていて、ちょうどよかった。巧みに英語を話す客引きが10ドルでボートツアーはどうかと言い寄ってきた。結局、値切って4ドルでボートに乗った。ボートは野生のアザラシに近づき、何やらスペイン語で説明してくれる。驚いたのは船頭がアザラシに「クェクェクェ」と呼び掛けるとアザラシが返事をしたことだ。
 同乗したメキシコ人はとても親切で何本もビールを飲ませてくれた。
 メキシコでは、テカテ、サラスパシフィック、ドスエックス、ネグラモデロなど多くの国産ビールを飲んだが、どれものど越しがさわやかで風土にマッチしていた。アメリカ、日本で人気のコロナ・ビールはメキシコではほとんど売っていない。


カリフォルニア湾を渡る


1988年3月22日(火)晴れ

青空とヘルメット

フェリー乗り場でトラックと順番待ち。機関銃を持った警備員と記念撮影。
(メキシコ 3月)

 朝から町外れのフェリーオフィスへチケットを買いに出掛けた。ラ・パスからは週二便、海峡を16時間で渡るフェリー・ボートが運航されている。
 パスポートや免許証など持っているのでスムーズにいくと思ったが、現実は大違いだった。中南米方式でワイロを要求しているのかというとそうではなさそうだ。車検証やツーリスト・カードを提示しても何やら別の書類がいると言っているようだ。スペイン語だけによく分からない。
 窓口で押し問答していると地元のモルモン教青年が英語で通訳してくれた。結局、青年をシャドー1100のリア・シートに乗せ、市内のイミグレーションや陸運事務局を回り、書類を作った。どうにかフェリー・オフィスに戻りチケットを買うことができた。
 手数料こそ取られなかったものの、2時間もロスしてしまった。もともと、他人の運転する乗り物に乗るのは好きではない。手続きが複雑で面倒なのは大嫌いだ。飛行機も嫌だ。その点、モーターサイクルは私好みの乗り物だ。
 2時半にフェリー乗り場へ行ったが、誰も来ていない。係員に聞くと炎天下の駐車場を指差し、待てと言う。30度を優に超え、シャドー1100の影もほとんどない。
 出港予定の5時を過ぎても何の動きもない。すっかり日も傾いたころ、乗船が始まったが、巨大なコンボイが先で私のシャドー1100は最後。タイヤの輪止めを自分でかませ、船が動き出したのはすでに7時。フェリーに乗ることが1日がかりとなってしまった。
 最も安い「サロン」はひどいものだった。係員はどこで寝ても良いと言うが、甲板の上という条件付きだ。満天の星空は見事なものだが、風は強いし、エンジン音はけたたましい。トイレは例のごとく汚い。ちょっとした難民船だ。
 なりゆき上、英語圏の旅行者が寄り集まり、ビールを飲みながらシュラフにもぐり込んだ。それでも乗客2ドル75セント、モーターサイクル2ドル50セントで一夜を過ごせて、海を渡れるのは破格だ。


ナイトクラブ

1988年3月23日(水)快晴

 当然のごとく予定時刻を大幅に過ぎ、昼近くになってメキシコ本土マサトラン港に接岸した。
 実を言うと今回のツアーでは、フェリーボートに乗ることにかなりのウエートを置いていた。豪華キャビンとフェリーからはき出されるときの感動を期待していたのだ。大学生の時、はじめてフェリーに乗り、薄暗がりで、ドブ臭い船底からエンジンをブリブリふかして下船した時の解放感は今もはっきりと覚えている。
 ハッチが開かれ、世の中が長方形に展開する異次元空間。しかし、あの時の感動はあの時だけのものだった。
 マサトランは立派なリゾートタウンで、住民もどことなくあか抜けている。しかし、生半可な都会なんて何の魅力もない。本土はほんの帰り道。トラブルにでも巻き込まれたら、半島の思い出が台無しだ。街を抜け出し、国道15号線を北へ急いだ。
 本土は車の数も多く、暑さも手伝って走りにくい。Tシャツのみで走ったので腕が日にやけてヒリヒリする。大して走ってもいないのに日が暮れてきた。適当にグワサビ(人口10万)という町に入り、安ホテルを探した。
 水のシャワーを浴び、飲み物を買いに表へ出た。ここで酒屋の主人から近くに日本人が住んでいると言って電話で連絡を取ってくれた。間もなく現れたムラカミさんは、日系二世で小間物屋を経営していた。3人は地元のレストランに繰り出し、メキシカン・フードを食べながら、ドンドンビールを空にした。
 そのうち話が盛り上がり、ナイトクラブへ行くことになった。ナイトクラブとは、単に酒を飲む所ではない。ダウンタウンからほこりっぽい砂利道を15分も走ったところに突然、ネオン街が現れる。
 薄暗い店内では、生バンドの演奏に合わせ踊る者、テーブルで話をする者が勝手にやっている。ムラカミさんに頼み、カウンターにいた金髪女性を呼んでもらった。しばらく酒を飲み、軽くチークダンスを踊った後、彼女の小部屋へと消えていった。
 小型の扇風機の回る薄暗い部屋。手持ちの現金が15ドル程減ったようだった。


セニョリータズ

1988年3月24日(木)晴れ

青空とヘルメット

青空とヘルメット

無邪気に海岸ではしゃぐ地元の高校生。仲良くなって一緒に食事をした後は記念撮影。
(メキシコ 3月)

 

 グワサビの安ホテル(1泊2ドル50セント)が気に入ったのでもう1泊することにした。その旨をフロントに身振り手振りで伝え、フロントからシャドー1100を引っ張り出した(盗難に備えて、モーターサイクルは館物の中に入れて、チェーン・ロックをかけておくのが常識)。
 手持ちのメキシコ・ペソが残り少なくなっていたので、銀行に両替に行った。銀行内はとても明るくきれいだが、やたら時間がかかる。50ドルのトラベラーズ・チェックを両替すると113,500ペソにもなり、金持ちになったような錯覚に陥る。メキシコ・シティーまで相場確認の電話をしたとかで2,000ペソの手数料をとられた。
 昨夜の酒屋の主人をさそって海水浴へ行こうと思ったが、主人は腹が痛いというので1人で行くことになった。
 絵に描いたような田舎道を小1時間も走ると、目の前にカリフォルニア湾が広がった。
 平日の砂浜には、ほとんど人影が見られなかった。それでも日本で言う浜茶屋のようなものは営業していた。
 渇いたのどにペプシ・コーラを流し込みながら波打ち際へ足を運んだ。十数人の女の子がキャーキャー言いながら、記録撮影を楽しんでいた。嫌な顔をされるのを覚悟でレンズを向けた。彼女達はまったく気にも止めず、はしゃぎ続けている。
 さらに近付き、シャッターを押しましょうかと言ってみた。リーダー格のグロリアは英語がうまく、十分コミュニケーションをとることができた。彼女達はグワサビの高校生で16〜18歳だと言う。ほとんどが白人系でボインの娘が多い。メキシコを旅した後、アメリカに戻ると、アメリカ人はボインが少ないと思えてくる。
 日本人を見るのが初めての子もいるようで、私は人気者になった。歌を歌ったり、写真を撮って過ごした。時々、木陰に戻るとメキシカン・フードや飲み物を次々に目の前に差し出した。私がどんな反応をするか興味津々のようす。
 私は胸も腹もいっぱいになった。大勢の女の子、それも混血美人に囲まれて食事をするなんて初めての体験だ。


ラ・バンバ

1988年3月25日(金)晴れ

 グワサビでの思い出をかみしめながら、一路USAを目指した。あと1,000kmほどだから2日もあれば、再入国できるだろう。
 メキシコ本土もUSAに近づくにつれて、雰囲気が違ってくる。特にバハ・カリフォルニア半島南部の感じとは明らかに違う。なんとなく、アメリカナイズされるというか、ちょっとした町や住民があか抜けてくる。半島南部の住民は何もメキシコ民族衣装を着ているわけではないが、どことなく田舎臭く、かつ親しみやすい。
 また、州境などで頻繁に軍や警察の検問がある。USAに近づくにつれて厳しさを増し、かばんを開けさせられることもある。USAに運ばれるドラッグ(麻薬)対策らしい。それでも陸続きの国では、違法入国者の問題も含め、解決は容易ではない。
 市内にも軍事基地は点在しているし、料金所やフェリーターミナルにも、機関銃を持った兵士がうろうろしている。教育程度があまり高くなく、英語を理解しない者も多く、コミュニケーションが取りづらい。基本的には、写真撮影は拒否される。平和の宝庫・極東のミラクル・アイランド「日本」から来た私には、異様な感じを受けるが、世界に目を向けるとメキシコが普通なのかもしれない。
 地元の人も、武器の携帯にはとても神経質になっている。私が常に腰につけているナイフでさえ、危険だと言う。武器を持っている人間は、麻薬密売人と判断され、発砲される恐れがあるというのだ。逆に考えると、USAよりも、身の危険(暴行、傷害、殺人)は少なく、安全だと言える。
 1年に及ぶ全米ツアー中、1、2に暑い日だった。気温が40度を超えている。家の中に入っても35度を超えている。まだ、3月だというのに…、真夏はどうなるのだろうか。Tシャツ1枚で100km/h以上で走っていても、ヘルメットの中が汗ばみ、背中に汗が伝う。2本の腕がジリジリする。ドス黒く、赤く腫れ上がっている。それでもヘルメットをぬぐわけにはゆかない。転倒や法律ではなく、無数の虫が危険だからだ。
 少し走っては、すぐに休む。ビールかジュースを飲んでまた走り出す。そして、また休む。田舎のレストランでは、厨房(ちゅうぼう)まで入っていき、なべのふたを開けて、食べられそうなものだけ、指差して注文する。これが一番確実な方法だ。

 比較的交通量が多く、路肩がないので見通しが悪く走りにくい。大型トラックなどはウインカーで合図して、追い越すタイミングを教えてくれる。
 荷物をシャドー1100に積み込み、走り出す朝。やみくもに突っ走る昼。そして、ひとり旅ライダーにとって、最も嫌な夕暮れがやって来る。
 さっきまで元気に走っていたライダーも急に心細くなってくる。もうひとがんばり走ろうか、手ごろな宿を探そうかと迷う。南北に移動中は関係ないが東西に移動中だと、時差の関係で1時間得したり損したような気になる。ひとり旅ライダーは、宿を予約するということを知らない。もっとも、メキシコの田舎では、予約したくても何の資料もない。
 地図を見ると、アメリカ国境まで300kmを切っていた。朝から700km程走っていたので、少し早いがソノラ州の州都ハモシロで安ホテルを探すことにした。本能的に裏通りに入っていき、TV、クーラー、立派なバスルーム付きで7ドル50セントの手ごろな部屋を手に入れた。
 黒のライディング・ギアをぬぎすて、ほてった体にシャワーを浴びせつける。腕がはりさけそうだ。
 軽装に着替え街に出た。アメリカナイズされたホットドッグ屋で腹ごしらえし、映画を楽しんだ。異国での映画は映画そのものより、観客の反応の方がおもしろい。この時もアメリカ製オカルト映画に女の子の黄色い声が響き渡った。
 帰りがけ広場から、あの「ラ・バンバ」のメロディーが聞こえてきた。昨年(1987年)の夏、北米で何度となく耳にした曲だ。金曜の夜ということで広場に大型スピーカーが持ち込まれ、露店のディスコになっているのだ。
 モーターサイクルのたまり場へシャドー1100をすべり込ませた。数人の若者がテカテ・ビールを飲んでいる。どこの国でも同じだが、ちょっといかれた感じで、ヘルメットなどという無粋なものは持っていない。
  自らをヒッピーやヘビー・メタルと称する陽気な連中。ガールフレンドを乗せたまま、ウイリーを見せたりする。この連中とビールを飲みながら夜はふけていった。

さよならメキシコ

1988年3月26日(土)晴れ

青空とヘルメット

偶然撮影した犬と女の子。また、メキシコを旅してみたい。
(ラパス メキシコ 3月20日)

 メキシコに入国して10日目。アメリカ国境もすぐそこ。
  昨夜の露店ディスコで大声を出し過ぎたためのどが痛い。なごりを惜しみつつ、国道15号線を北上した。
 いつも通り軍関係の検問(麻薬対策)があっただけで、昼過ぎにはノガレス(アリゾナ州)の国境に達した。北上しているというのにどんどん暑くなる。ネバダ州からアリゾナ州に続く、本格的砂漠地帯に入っていく。
 やや渋滞していたものの、すんなり国境を通過できた。所持金、帰りの航空券の有無、行き先も聞かれず、逆に驚いた。あと1ヶ月残っている米国滞在許可を延ばしてもらおうと窓口に並んだ。フロリダまで旅をするので延ばしてほしいと言うと、フロリダのイミグレーションへ行くように言われ、延長は認められなかった。
 アメリカ、カナダと比べてみても、やはり異国。町がほこりっぽくて、トイレが汚い。かといって、極貧というとそうではない。マーケットには、商品があふれていたし、ガソリンも容易に手に入る。それになにより、人々は生活を楽しんでいるように見えた。1日の賃金が3ドルの国とは思えない。インフレなど、どこ吹く風といった感じ。
 平和な生まれ故郷・日本に帰ってきた今思うと、さらに中南米の奥地へ踏み込んで行けば良かった。メキシコ・シティーを通過して、ガテマラ、コスタリカをも走り抜き、パナマ運河を越えて、南米の遺跡を自由に走ればよかったと思ってしまう。しかし、それは安全な所にいるからこそ、思えること。当時は、予算的な面に加え、語学力の心配があった。英語でさえ満足でないのに、スペイン語圏にひとり旅は不安以外のなにものでもなかった。
 そして、私は全米50州ツアーの最終目的地フロリダへ向けて、モーターサイクルを走らせてしまったのだ。

  もしもう1度、メキシコ以南を走るチャンスを与えられるならば、必死にスペイン語を勉強して、南米最南端まで行ってみたいものだ。 (帰国後、スペイン語を習う機会を得て少ししゃべれるようになったが、南米に行く機会には恵まれていない)



 
 





EZア・メ・カ
2-12 異国へ行こう-メキシコ旅行
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
www.mike.co.jp info@mike.co.jp

2001.7.29 UP DATE