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第2章 全米ツアー

第15期 アジアへ帰ろう

最後の大陸横断(4度目)

 全米50州を走りきり(ハワイ州のみ飛行機)、本土最南端のキーウエストまでやって来た。新車のシャドー1100のトリップメーターは、すでに58,000km。それでも渡米前に抱いていた刺激的なアメリカは発見することはできなかった。
 やはり、帰ろう。生まれ育った日本へ。サービスが良く、活力にあふれた神秘の国。
 私の航空チケットは大韓航空のものなので、ソウルでステップオーバーすることができる。多くの日本人旅行者は、ハワイでステップオーバーしてバカンスを楽しんでから帰国するが、私はオリンピック直前のソウルの方に関心があった。
 フロリダで1週間ほど休みを取った後、一気に四度目の大陸横断をしてLA(ロサンゼルス)に戻る計画だった。すでに50州すべてに足を踏み入れているため、どのコースをとろうと勝手だ。アメリカ南部を一直線に横断すればよい。東から西への移動は時差の関係で日中が長くなり有利だ。5,000kmを1週間で。できれば丸5日で走りきれないかと考えていた。
 現実には横断を始めてすぐにペースが落ち、のんびり寄り道しながらLAに戻ったが、その間、ネイティブ・アメリカンとの交流、グランド・キャニオン、デスバレーと有意義な旅となった。
 LAでシャドー1100を友人に買い取ってもらい、大韓航空001便でソウルに向かうことで、一年に及ぶ「EZア・メ・カ」の旅が幕を閉じたわけだが、長いながらイージーなひとり旅であった。


デイトナ・ビーチ

1988年4月21日(木)晴れ

青空とヘルメット

開放的なアメリカの海。
(フロリダ州 4月)

 キー・ウエストのYH(ユース・ホステル)を逃げるように後にした。あそこに長居するとズルズルと抜け出せなくなる。US1号線、インターステーツ95号線を北上してフロリダ半島東岸のデイトナ・ビーチへ急いだ。途中に刑事ドラマ「マイアミ バイス」などで有名なマイアミ市があったがあっさり素通りした。あえて立ち寄ったとしても、何も得られないと考えたからだ。
 700km走り、デイトナ・ビーチに着いたのは午後6時を過ぎていた。数あるリゾート地の中で、この町を選んだのには二つの理由かあった。ひとつは、この町にあるデイトナ・スピード・ウェーはモーターサイクル・レースのメッカであること。もうひとつは、この町のYHはウイクリー割引があり、70ドルで一週間泊まれるからだ。
 シーズン・オフだとはいえ、宿泊客は少なかった。結局、日本人のみの4人部屋に泊まることになった。普通のホテルに二段ベッド入れてYHにした感じにもので、バスルームも快適だった。
 一階ロビーはペプシ・コーラの自動販売機のほかに、無料冷水機も設置されていた。ロビーの隣がゲーム室でビリヤード台と卓球台、それにコインロッカーが並んでいた。ビリヤードがしたくて長く泊まっているホステラーさえいた。
 さらにその奥が自由につかえるキチンとなっていた。連泊する時は、キチンの使い勝手が問題になってくる。食料品を買い込み、計画的に自炊すると安くてリッチな生活を送ることができる。
 YHについて一段落するとすぐにシャドー1100の洗車にかかった。キー・ウエストの水道は薄い海水なので、全体的に塩をふいていた。幸いデイトナ・ビーチの水道は真水だった。(キー・ウエストが特殊な例だ)

 スーパーマーケットで食料品を買い込んだり、ゲーム室でビリヤードや卓球をしてのんびり過ごす。気が抜けたのか右下口びるに口内炎ができてしまった。一年の全米ツアー中、医者にかかったことは一度もなかったが、ごく軽い風邪にかかったことがある。それはいつも、長期滞在中など比較的楽な時だ。雨に打たれ、ブルブル震えながら数100kmを移動している時は、極度に緊張しているので風邪をひくことはない。
 春休みも終わったこの時期、フロリダあたりを旅行している日本人は、変わり者ばかりだ。
 留年の決まったビリヤード狂の東大生、チョビヒゲのプータロー、留学中だか遊び回っている若者、たぶん自衛隊をやめた国際浪人、…。私も他人の事をとやかく言えた身分ではない。ほとんどがひとり旅で個性の強い、ちょっとクセのある連中だ。旅と言う非日常には、こういう連中と出会う楽しみも与えてくれる。
 夜は近くのストリップ・バーやゲームセンターをひやかして歩いた。一緒に歩く仲間ができると安心だ。

 4月23日(土)晴れ

青空とヘルメット

青い空と赤い監視塔。
(フロリダ州 4月)

 お昼過ぎ、キャンプで使うエアマットをふくらませて、ビーチへ繰り出してみた。ビーチは、トップレスこそいないものの、ビキニの女の子でいっぱいだ。湘南海岸のようにゴミゴミした感じはなく、砂地の波打ち際をモーターサイクルや乗用車が走っている。
 明日は、望遠レンズを付けたカメラを持ってビーチへ行くことを決め、帰りにお土産屋でビーチサンダルを購入した。

 4月24日(日)曇りのち晴れ

 カメラを持ってビーチへ出掛けたものの天気が悪く、これといった良い写真が撮れない。

 簡単な食事をしたり、ビリヤードや卓球をして過す。卓球はロサンゼルスのアパートにピンポン部屋があったおかげで、外国人相手に優勢にゲームを進めることができた。相手をしたアメリカ人の一人がムキになるタイプで、一度私に負けると勝つまで何度でもゲームを挑んできた。私も負けず嫌いの性格なので手抜きなどせず、本気でゲームに臨んだ。卓球は意外とハードなスポーツなのに加えて、ここは亜熱帯のフロリダ。全身から汗を吹き出しながら、ランニング・シャツ、短パン、素足で白球を追うのは、変な気分だ。
 夜はロビーでホステラー達とテレビを見たり世間話を楽しんだ。そのうち、英語についての議論が白熱してきた。アメリカ人である50歳過ぎのホテルのマネジャーと、英国人の旅行者(20歳そこそこ)が激しく英語の本流について言い合った。アメリカ人が主張するには、英国人はブリティッシュ・イングリッシュをしゃべる。英国人は、イングリッシュを話すと主張する。アメリカが地上で最も住み良い所だと言うと、英国は近代社会の基礎をつくったと言い返す。お互いに手を出したりはしないが、すっかり感情的になっている。
 私は、すでに終わった国同士が何をつまんないことで言い争っているのだろうと、冷ややかな目で見ていたが、アメリカ人とイギリス人が議論している間に、割って入っていく程の英語力はなかった。
 そうこうするうちに、時間が過ぎ、ベッドに入ったのは午前五時を過ぎていた。門限や消灯時間のないYHは自由で良いが、生活のリズムが崩れやなくなるのは困りものだ。

 4月25日(月)曇り一時小雨

 深夜まで話し込んでいたので10時まで寝ていたのに加え、昼寝までしてしまった。
 昼寝をしているとノックの音で起こされた。眠い目をこすりながらドアをあけると、
「アー・ユー・スリーピング?」
と流ちょうな英語が返ってきた。それはアメリカ人ではなく、日本人留学生だった。
 私も約1年アメリカに滞在し、英会話には多少の自信は持っているが、きちんと留学した人には、まったく歯が立たない。特に、頭のやわらかい十代でフルタイムの学校へ通って、英語を手段として勉強してきた人はすごい。英語で考えるというか、身に着き方がまるで違う。24歳でどうにか滞米できたが、十代で留学している人を見るといつも羨ましく思う。
 どんよりと雲がたれ込め、気温は低め、ビリヤードや卓球に熱が入る。かなり上達し、技術的には負けていないのに終盤ではどうしてもせり負けてしまう。苦しくなると精神的にだめになる。精神力をきたえるのは容易ではない。

 4月26日(火)晴れのち一時雨

 近くの沼地へワニでもいないかとシャドー1100で出掛けたが、どこにもいない。急に、雷を伴う強い雨が降ってきた。気温が二十度まで下がり、ものすごく寒く感じる。地表はそれ程でもないが、上空はものすごい風のようで、太陽の前を白い雲、ドス黒い雲が猛烈な勢いで通り過ぎる。
 YHに戻ったころには、雨もやんでいたのでビーチに出てみた。甲羅干しにはカンカン照りが良く似合う。曇りでも紫外線の量は同じらしいが、膚がジリジリする快感を楽しみたい。
 デイトナ・ビーチに来て6日目。多くのホステラーが通り過ぎて行った。あまり食欲がなく、何を食べてもおいしいとは感じない。近くのケープ・ケネディ・センターやディズニー・ワールドを観光しようと考えていたが、その気はすっかり消え失せていた。

 4月27日(火)晴れ

青空とヘルメット

レンタル サイクルの店。
この場合、サイクルとは自転車ではなく、小型のモーターサイクルのこと。
(フロリダ州 4月)

 昨日、雨のため、引き返したトモカ・ステート・パークへ1ドルの入場料を払って入ってみた。ステート・パークといっても、沼地や密林があるだけで、ワニを見ることはできなかった。結局、約2週間もフロリダにいたが、一度もワニを見ることはなかった。
 残るは、デイトナ・スピード・ウエー。海岸から少し内陸に入った大通り沿いにスピード・ウエーがある。巨大な駐車場にはほとんど車もモーターサイクルの姿もない。レースの行われるデイトナ・ウイークに全米からライダーが集まり、モーテルがすべて満員になるというが、シーズン・オフはさみしいものだ。
 入り口付近にはひっそりとTシャツやレース雑誌を売る店がある。時々、観光客が来るようで警備員も立っていた。
 コースを走ることはできないが観客席には無料で入ることができた。さすがに広い。レース開催中に来たいものだ。
 1週間もあるからと少しずつしか焼かなかったので、思ったより焼けなかった。メキシコでついた腕の色の違いはとれていない。3ドル払ってビーチにシャドー1100を乗り入れてみた。一般道路はノーヘルが禁止されているがビーチはお構いなしだった。最後の海を楽しむようにビーチをゆっくりと何度か往復した。ビーチは数kmもあり、場所によって白人の多いところと有色人種が多いところとが分かれているように感じた。
 フロリダにきて買おうかどうか、真剣に迷ったものがあった。それは、ワニの形をした浮き輪だった。ワニ以外にも、カメ、サメ、クジラ、イルカ、キリンなどあったが、ワニがピカ一だった。20ドル程度だったので変えないことはなかったが、フロリダからカリフォルニアへ帰ることを考えて買うのをひかえたのだ。キャンプ用のエアマットで十分に役に立ったので買わないのが正解だったかもしれない。
 いずれにしても明日には荷物をまとめてフロリダを離れ、カリフォルニア目指しての旅に出る。シャドー1100とヘルメットを水洗いしておいた。


トロイのYH

1988年4月28日(木)晴れ

 1週間のリゾート生活にピリオドを打ってフロリダを離れることになった。ディズニーワールドやケープカナベル、ワニ見物とやり残したことはあるにはあるが、とにかく西へ走ろう。日本へ帰ろう。
 気温は23度だが走り出すと寒く感じる。インターステイツ10号を快適に飛ばす。
 無理すれば、あと100kmや200km進めるのだが、700km走ったトロイのYH(ユース・ホステル)にチェックイン。このYHは半月ほど前に泊まった所だが、木の香りとおばあさんが気に入ったので帰りにも寄ってみたのだ。おばあさんは、私との再会を喜び、温かく迎えてくれた。驚くべきことに、半月の間に宿泊客はゼロだったという。本業はキルト製品の製作をしていた。
 一緒に食事をして、テレビを見た。日本でも見たことのある「ビル・コスビー・ショー」は全米でも有名な人気番組だった。英語のテレビ番組でわかりやすいのは、なんと言っても幼児向けのアニメーションだ。声優はゆっくりしゃべってくれるし、文法に忠実なのがうれしい。画面にあわせた説明主体のニュースもわかりやすい。反対に難しいのはコメディートーク・ショーだ。英語が聞きとれるかどうかということよりも、生活感に乏しい外国人にとって生活に根ざしたジョークにはまったくついてゆけない。
 思い切って悪名高いKKK(クー・クラックス・クラン)について聞いてみた。KKKの本部は同じアラバマ州にあるが、このおばあさんは人種差別をするような人には見えないので、一般的なアメリカ人としての意見を聞きたかったのだ。
 彼女は、はきすてるように一言「ダム」(きちがいさ)と言っただけで、何も語ってくれなかった。
 キーウェストで撮った写真を記念に渡し、11時にはベッドに入った。明日は、夜明け前に起きて1,000km以上進もう。


西へ、西へ

1988年4月29日(金)曇りのち雨

 3時起床。真っ暗の中、4時に出発した。気温は10度。防寒のため、フェイスマスク、レーンウエアまで着込んだが、寒くてしょうがない。つい2日前までは、真夏のようなフロリダにいたのだ。
 6時には気温が5度まで下がった。水温計のランプが切れていること気付いたがどうすることもできない。
 インターステイツ20号線を急ぐ。午前中に600km以上進んだ。このペースでいけば一日1,000kmの記録をぬりかえるだろう。
 2時過ぎ、雲が厚くなってきた。この日、泊まったモーテル6から父に当てた手紙にこう書いてある。

「テキサス州はダラスの東200kmのロングビューと言う町のモーテルにいます。二日前にフロリダ州デイトナビーチを出発し、LAに向かっています。グランドキャニオンのみ観光するつもりです。
 昨日はアラバマ州のトロイという田舎町のユース・ホステルに泊まり、今朝は四時に出発しました。
 今までの最高は一日に1,000kmだったので、これに挑戦するためです。午前中に600kmを走り、1,000kmは軽いと思ったのですが、800kmを過ぎたあたりで雨。LAを出て(メキシコからフロリダを回り)六週間ですが、初めて雨の中を走ることになり、雲の流れを読み間違い、970kmでモーテルに入りました。
 雨が降り始めた時点で一時間程度様子を見たほうがよかったのですが土砂降りの中を走り、レーンウエアを着ていてもかなりぬれました。おまけにバッグの中身もかなりぬれてしまいモーテルで干しています。
 今は雨も上がり、明日は走れそうです。」

 今までも数度、雲を読み間違えているが、なかなかうまくゆかないものだ。テレビでクロコダイル・ダンディの映画でも見ながらのんびりするしかない。

 4月30日(土)曇り

 服は乾いたがヘルメットを乾かすのを忘れていたため、かぶっていると気持ち悪い。テキサス州はノーヘルOKだが寒くてノーヘルでは走れない。
 インターステイツ20号線を西へ急ぐとダラスの高層ビル群が遠くに見えてくる。光り輝くビルがだんだん大きくなってくる。高層ビル群といえばNYやシカゴが有名だが、ダラスやアトランタといった田舎のほうが美しい。荒野と現代文明の織り成すコントラストは、長距離を走り抜いてきたライダーへのプレゼントだ。
 10時近くに出発したのにもかかわらず、午後7時過ぎには800km走り、ニューメキシコ州境に程ないアマリロまでやってきた。少々頭が痛いがまだ走れそうだ。前方に沈みゆく夕日を追いかけるようさらに進み、田舎町ベガのモーテルにチェックインした。
 ここ数日は風が弱いので助かる。3日で2,500kmと大陸の半分を走りきったことになる。


ネイティブ・アメリカンとの出会い


1988年5月1日(日)曇り

青空とヘルメット

今ではパンを焼くのはお祝い事のあるときくらいだという。
異邦人をもてなしてくれた。
(アリゾナ州 5月)

 夜中にストーブをつけたり消したりでよく眠れなかった。体の節々が痛む。気温は20度あるものの寒く感じる。
 出発してすぐタイム・ゾーン(セントラルタイムからマウンテンタイム)が変わるため、1時間得した気分になる。

 猛烈に風が強い。何度も路肩に吹き飛ばされる。1100ccのビッグ・モーターサイクルといえども風にはきわめて弱い。大平原に吹く風は日本人ライダーの想像をはるかに越えていた。
 5日で大陸横断をすることをあきらめ、3時には州都サンタフェのYHにチェックインした。
 このYHは禅の修行をしている女性の一家が運営しており、私が永平寺のある福井県の出身者であることを知ると目を輝かせていろいろ質問してきたが、何も答えられなかった。一部の欧米人にとって「ZEN」とは特別な意味を持っているようだ。
 居間で一冊の日本語の本に出会った。コラムニスト、ボブ・グリーンの書いた「チーズ・バーガー」。私はむさぼるように読み進めた。私が感じていたアメリカが正確に描かれていた。これほど、アメリカを描いた本は見当たらない。帰国後、彼の著書はほとんど読破した。

 5月2日(月)晴れ

 すでに五月だというのにものすごく寒い。朝の気温はたったの2度。ロッキー山脈のすそ野に広がるニューメキシコ州は砂漠地帯でもあり、気温の差が激しい。雲ひとつない晴天なので、暖かくなることを期待してシャドー1100をはしらせた。
 小一時間も走ると寒さに耐えられなくなった。しばらくカフェーで休もうと、サンタ・ドミニコプローブルという村でフリーウェーを下りた。
 何もない村でマクドナルドもケンタッキーフライドチキンも見当たらない。

青空とヘルメット
お土産にパンもいただいた。
(アリゾナ州 4月)

 ゆっくり走っていると珍しい光景に出くわした。ちょっと太った女性たちが庭先で自家製のパンを焼いているのだ。私はいきなりシャドー1100を庭に乗り入れた。カメラを片手に写真を撮らせてくれと頼むと快くOKしてくれた。
 ひとしきり写真を撮り終えたころ、家に上がって朝食を一緒に食べないかとさそわれた。食卓には今焼き上げたばかりのパンのほかに、牛肉にシチュー、目玉焼き、それに砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーが並んだ。パンはスーパーマーケットで売られているものとはまるっきり違い、まったく甘くなかった。フランスパンのように堅く、こうばしい香りがした。
 それより何より、2m近くもある土のかまで蒸し焼きにするのが珍しかった。聞いてみると毎日焼くのではなく、祝い事がある時などだけで、ふだんはマーケットで買うそうだ。

 この辺は、インディアン・リザベーションでネイティブ・アメリカンしか住んでいなかった。若い人は英語のみで話すが年配者は私のわからない言葉も使っていた。彼らは貧しい生活をしていると想像していたが、意外とリッチだ。大家族とはいえ、自家用車が五台もあったし、洗面所はいつでもお湯が出る。家電製品も多く普通のアメリカ人の生活と同じようだ。
 彼らは言葉少なに「われわれは北極を回ってやってきた。最初のアメリカ人だ。」と語ってくれたが、宗教観などまでは聞けなかった。ただ、家族の温かさの中で暮らしているのは確かなようだった。

 ネイティブ・アメリカンとの別れを惜しみつつ、インターステイツ40号線を西へ走った。もう5月だというのに冬のように寒い。この辺は砂漠地帯で気温の差が激しく、生活の厳しい所だ。冬は零下20度にもなるが夏は40度近くにもなる。寒さで30分おきにトイレに入りたくなる。トイレには電熱線ストーブが設置されていて、とても便利だ。
 風が強く、シャドー1100を30度も右へ傾けないとまっすぐ走れない。寒さと乾燥のため、口びるが割れた。燃費が悪く15km/lしか走れない。
 800km近く走り、グランドキャニオンへの入り口の街・フライスタッグに着いたのは、もう8時を過ぎていた。一年中、観光客でにぎわうこの街はモーテルの数も多く、14ドル程度からと安い。
 私は8ドル81セント(税込み)のユース・ホステルにチェックインした。YHと言ってもホテル並で、1階のバーではライブショー(1ドル50セント)も開かれた。ライブが開始する時間を聞いてちょっとしたトラブルになった。私の時計ではすでに始まっている時間なのに、一向に始まる様子がない。アリゾナ州は夏時間を採用していないので1時間遅いのだった。夏時間を採用していないのはアリゾナ州だけだが、ややこしいのには困ったものだ。 全米地図を広げてみると、LAはもうすぐそこ。長かった全米ツアーの事をあれこれ思い出す。北はアラスカから南はメキシコ、フロリダまで、泊まり歩いたキャンプ場、YH、モーテルが頭をよぎる。手持ちの金を調べるとトラベラーズ・チェック600ドル+現金83ドル。LAに帰るには十分だ。
 ビールを飲みすぎて、寝室のトイレではいてしまった。ネイティブ・アメリカンとの出会い。居留区の観光、強風の中での移動、ライブショーと、いろいろあって少し疲れ過ぎたようだ。明日は、グランドキャニオンへ行こう。
 そして、目的地LA(ロサンゼルス)はすぐそこだ。


グランド・キャニオン

1988年5月3日(火)晴れ

青空とヘルメット

グランドキャニオンの圧倒的な存在感は言葉では言い尽くせない。
(アリゾナ州 5月)

 フライスタックでチキンカレーの朝食。モーニング・グロー・カフェーというタイ料理の店は、エスニック感覚満点で味も値段もOK。
 グランドキャニオン目指して出発だ。キャニオンはコロラド川によってできた峡谷だが、グランドキャニオン村自体は標高2,000mを越す高原にある。近くの山の頂が真っ白でとても美しい。村に近付くにつれてガソリンの値段がどんどん上がる。それと半比例して燃費は悪くなる。空気が薄いためエンジンの調子は悪い。
 午後には5ドル支払ってグランドキャニオン国立公園に入った。確かにすごい。谷の深さが1,600mあるとか、全体に広さが日本に相当するとか、書物に書いてあることなど何の意味もない。圧倒的存在感がある。全米で数多くの国立公園を見てきたが、イエローストーン国立公園とグランドキャニオン国立公園は群を抜いている。
 早めにユース・ホステルニチェックインしようとようやく探し当てたそれには、でかでかと満員の看板がかけられていた。モーテルだと50ドルも取られてしまう。急いでキャンプ場に入ったが、キャンプ代は8ドルと国営にしては高め。ゆっくりとテントを設営し、とりあえず昼食。
 夕食は、ネイティブ・アメリカンからお土産にもらった田舎パンにローストビーフをはさんで食べた。
 5月とはいえ、高原の朝は寒い。この日の朝は零度で、前日の朝はマイナス5度で雪が降ったらしい。
 寒さにそなえて、着込めるものをすべて用意してシュラフに入った。ためしにテントの中でガソリンストーブをつけてみた。テントの中は、すぐに暖かくなった。テントの注意書には火気厳禁とあるが、寒いときは無理せず、ストーブをたけば良かったと思ったが、テントを張ったのはこれが最後になった。


2度目のラスベガス&デスバレー

1988年5月4日(水)曇り

青空とヘルメット

最後となったキャンプ。お金がほとんど掛からないのと地元の人との交流が楽しみのひとつ。
(アリゾナ州 5月)

 6時起床。幸い気温は5度までしか下がらず、良く眠れた。もう一度、テントの中でストーブをつけて楽しむ。テントをたたみ、ラスベガスへ向けて出発した。
 途中、グランド・キャニオン・ケーブという観光洞穴があったのでためしに入ってみる。マイナーな所で客はイタリア人とアルゼンチン人との三人のみ。
 アリゾナ州からネバダ州に抜ける国道93号線は、砂漠の中を一本道が走り、絶景といえる。雨や雪が多い日本海側で生まれ育った私には、雨の降らない砂漠は非常に魅力的に見える。
 州境には有名なフーバーダムがある。しかし、グランドキャニオンを見た直後だけに、チンケに見える。ノーヘルのままネバダ州に入っていくと老ポリスに注意を受けた。まずい。
 4月29日にアメリカ滞在許可が切れているので不法滞在だ。何か言われたら、カリフォルニア州発行のドライバーズ・ライセンスを出して日系人をよそおうしかない。幸い注意だけですんだのでトラブルには到らなかった。

 8カ月ぶりのラスベガスは妙になつかしい。変わった事といえば、やや涼しくなったこととガソリンの値段が上がっていたことぐらい。8カ月前と同じように、ユースホステルに泊まり、フレモントホテルで1ドル98セント(税別)のニューヨーク・ステーキを食べる。
 以前は、マシン相手にしかブラック・ジャックをしなかったので、人間相手にチャレンジしてみた。美人のディーラー相手にガンバった。一ゲーム5ドルのテーブルで勝ったり負けたりしながら、10ドルもうかった。ディーラーが変わり、ハゲ頭のおっさんが相手になった。こいつがやたら強くて、すぐに負けてしまった。おっさんに変わったところでやめるべきだった。

青空とヘルメット

青空とヘルメット

大通りでは映画の撮影を行っていた。ラスベガスは映画の都ハリウッドからも近いが、500km離れている。おびただしいネオンは近くのフーバーダムの発電でまかなわれているという。
(ネバダ州 5月)

 カジノで行われていることが本当の現実なのかもしれない。チップを置かないとチャンス(カード)は与えられず、与えられたあとには何もなすすべもない。
 ギャンブルをあおる「カクテル、カクテル」の声。大きな流れの中でゆっくりと確実に進行してゆく。
 ホテル「サーカス・サーカス」で2ドル29セント(税別)のブィフェを食べたあと、ラスベガスを離れることにした。前回は2泊3日で不夜城を楽しんだが、もうたくさんだ。あまりにも合理化された安っぽいカジノには、あまり魅力を感じない。ディナー・ショーやマジック・ショーにも興味が薄い。もっとも一日30ドルではなく、300ドルくらいの予算があれば話は別だったかもしれない。
 ラスベガスとLAはほんとの500km。真っ直ぐ走ると半日で着いてしまうので、ネバダ州とカリフォルニア州にまたがるデスバレーに足を伸ばすことにした。
 ここは、砂漠が売り物の観光地で、全米の最低地(マイナス63m)。最も雨の少ない所としても知られている。
 ものすごい風で、砂が舞い上がる。片側一車線の道から吹き飛ばされて、砂利の路肩にシャドー1100ごと出たこともあった。もっと困ったことは、あたり一帯が停電して、ガソリンスタンドのポンプが動かなくなってしまったことだ。現代文明とは何ともろいものか。次のスタンドまでガソリンがもちそうもないので足止めを食うことになった。
 レストランに入るとロウソクで細々と営業していた。電子レンジが使えないのでメニューも少なくなっている。ビールでも飲みながら待つしかない。窓際のテーブルに陣取り、田舎の両親に手紙を書く。
 2本目のヒールが空になりかけたころ、突然、ライトが点灯し、扇風機が回りだした。
 いよいよ、出発だ。ガソリンを満タンにして走り出す。バッドウォーター(最低地)で写真を撮っていると強風のため、愛機ニコンF−301を落とし、ペンタリズム部分をこわしてしまった。なんというトラブル。おまけに小雨まで降ってきた。さらに気温が下がり10度しかない。
 急いでLAに帰ろう。インターステイツ15号線に戻った時はすでに6時を過ぎていた。今夜のうちにLAは無理だ。LAから200kmのバストウという宿場町の安モーテルにチェックインした。


愛しのロサンゼルス

1988年5月6日(金)快晴のち曇り

青空とヘルメット

デスバレーは、名前ほどグロテスクではなく美しいところだった。アクシデントもあり、思い出深いところだ。
(ネバダ州 5月)

 六時半、スッキリと目が覚めた。外は雲ひとつないカリフォルニア晴れ。LAを囲む山々は真っ白な雪におおわれ美しい。風呂に入り八時にはシャドー1100に乗って走り出した。 天気は良いが手がしびれるほど寒い。気温は七度しかない。小一時間も走ったところで、マクドナルドに入った。何も急ぐ必要はない。なにげなく入ったマクドナルドが奇遇にも前回、ラスベガスからの帰りに入った店。人間には深い記憶がよみがえることもあるようだ。
 10時過ぎ、アナハイム市のフジフイルムUSAに到着した。撮りためた31本のスライド・フィルム(36枚撮り)をどっと現像に出す。
 2ヶ月ぶりのLAはとても寒かった。バンクーバーから帰ってきた時も、ニューヨークから帰ってきた時も、雨が私を歓迎してくれたが、今回はフリーウェーの渋滞と市内の信号機が印象的だった。世界最大の車社会に帰ってきたのだ。4度目のLAはまさしく帰ってきたというのが実感。
 トーレンス市のニコンUSAへ落してこわした愛機F-301を修理に出す。100ドルの見積もりだったが、直すことにした。最初に手にした一眼レフカメラだけに何度こわれても愛着がある。
 ベター・ライフ・センターへすぐには戻らずに、以前働いていたアスカ・レストランへ急いだ。すしを食べるのは1カ月ぶり。
 無心に食べていると、すし職人から、お前のようにむしゃぶりついてくれるとにぎっていてもうれしいと変な誉められ方をされてしまった。
 ベター・ライフ・センターに戻るとみんな歓迎してくれた。ただ顔がやつれ、着ている物がボロボロになって帰って来るものと想像したらしく、元気な私の姿を見て、ガッカリした者さえいた。バハ・カリフォルニア半島を縦断し、アメリカ大陸を往復して帰ってきたのだ。そう考えるのも無理はない。夜は、ワインクーラー片手のささやかなパーティーを開いてくれた。

 5月7日(土)晴れ

 長い間、居候させてもらったジュンと連絡を取り、ヨコハマ・ラーメンでブランチ。
 私と再会したときの彼の印象は、意外と元気そうだということ。やはり彼らのイメージを損なわないように、ボロボロになって帰ってくるべきだったか。
 8回目のオイル交換。トリップメーターは40,000マイル(64,000km)を回っていた。シャフトオイルやウインカーステイも交換して磨いてやった。
 しかし、シャドー1100のどことなく疲れた感じは消えなかった。

 5月8日(日)晴れ

 全米ツアー中、お世話になった人達にお礼の手紙を書くため、原文を考える。キーウエストで撮った写真を使うことにする。
 昼間はダウンタウンのヤオハンでカツカレーとシュウマイ。何度来ても、ここがLAの一部とは信じ難い。シャドー1100を2850ドルで売りに出すメッセージを掲示板に張った。ここには、車や家具、航空チケットの売買、求人、ルームメートの募集が所狭しと張られている。

 5月9日(月)晴れ

 シャワーを浴びた後、久しぶりにネクタイを締めて、国際免許を取りに行った。
 日本だと国際免許は、パスポートをそえて各都道府県の公安委員会に申請するが、アメリカではAAA(アメリカ自動車連盟、日本自動車連盟JAFに相当する)に申請する。手続きは、トラベルサービスのカウンターで申請用紙をもらい、氏名、生年月日、出生地、免許の種類を記入するだけ。
 手数料はたったの5ドル。アメリカの記念にと、写真を撮ってもらったのでさらに5ドル。写真は、カウンターの一番はずれにあるフォトコーナーでポラロイド写真をパチリ。国際免許にホッチキスでとめ、ゴム印でAAAの割り印を押すだけ。最初は乗用車免許だけしかついていなかったので、モーターサイクルもお願いしますと言うと、確かめもせずにスタンプを押す。その間、たったの15分。好い加減と言えば、好い加減。合理的と言えば、合理的。
 夜から、ハングル語の勉強を始めた。帰りにソウルへ行くつもりだからだ。先生は、ベター・ライフ・センターに住む韓国人青年のセフーン。英語でハングル語を学ぶのは妙な気分だ。

 5月10日(火)晴れ

 ニコンUSAで修理した愛機F-301を受け取る。99ドルは痛い出費。
 その足でフジフイルムUSAで現像されたスライドフィルム三十一本をドッと受け取る。その場で撮影日を記入しながら、プリントするカットを選び出した。丸五時間、ライトボックスと格闘すると、頭がボーとなってしまった。表に出ると気温は30度を超え、やや暑い。一度に1,000カットものフィルムを見たのは初めてだ。
 ベター・ライフ・センター・に帰ると、ライダーが二人きていた。一人はアラスカへ向かおうとするライダーだった。LAには、種々の人間が集まってくる。

 5月11日(水)晴れ

 ウィルシャー・ブルバード沿いの韓国領事館へビザを申請に行った。ウィルシャー・ブルバードには各国の大使館や領事館が多い。
 写真や手続きが少し面倒でメキシコ領事館とは、まったく勝手が違う。パスポートは預けられ、あすの11時にくるよう指定された。手数料は10ドル。日本で申請すると3100円も取るのは、どう言う訳か。

 5月12日(木)晴れ

 韓国滞在許可(90日間)が下りた。アメリカ滞在許可期限がすでに切れていたのでクレームがつくかと心配したが、取り越し苦労ですんだ。
 その足で、大韓航空社で飛行機の予約。さらに、コリアンタウンで焼肉の食べ放題の店(6ドル)へ行く。店主にソウルへ行くと言うと、ソウルは良い所だと握手を求められた。

 5月13日(金)晴れ

 風紀の厳しい韓国に備えてアゴヒゲをそり落とした。韓国語の先生に聞いたところでは、ヒゲをはやしているのはヤクザだけだと言う。

 5月14日(土)晴れ

 日系書店でガイドブック「韓国の歩き方」を購入。LAの書店は、下手な田舎の本屋より、大きく品ぞろえが豊富だ。円高も手伝って、二倍前後と割高なのが玉にキズ。

 5月15日(日)曇り

 かまめしを作って食べる。一日をダラダラと過してしまう。長期滞在だと、どうしてもこうなってしまう。

 5月16日(月)曇り

 日本へ送るスライドを整理する。1,800枚くらい送るつもりだ。

 15月7日(火)晴れ

 あいさつを兼ねて、アスカレストランですしを食べる。一日があっと言う間に終わる。

 5月18日(水)晴れ。
 フジフイルムUSAでプリント200枚とフィルム15本を購入。ノグチ社長には、社員割引にしてもらったり、本当にお世話になった。

 5月19日(木)晴れ

 お世話になった人達に手紙を書く。アメリカを離れる実感が沸いてくる。

 5月20日(金)晴れ

 シャドー1100を友人のケンに2,000ドルで引き取ってもらった。ちなみにケンはモーターサイクルに乗れない。手続きは、ピンクスリップという書類にサインして、ケンに渡すだけ。
 日米文化会館の英会話学校でお世話になったシオミ先生に帰国のあいさつに行くと、急いで英語修学証書と日本語を教えたことに対する感謝状を書いてくれた。

 5月21日(土)晴れ

 夕方、友人とピストルの射撃場へ遊びに行った。リボルバー式、オートマチック式とも試してみたがほとんど的に当たらない。百発だけだったが、体中、汗だらけになってしまった。私には、銃は似合わないようだ。

 5月22日(日)晴れ

 いよいよ、明日はアメリカを離れる。3つのバッグに荷物をすべて詰め込んだ。ジュラルミン製のカメラバック、ブルーのスポーツバック、それと旅行バック。

 5月23日(月)晴れ

 友人の車で、空港まで連れて行ってもらった。一年間の滞在で何度か友人を見送った空港だが、今度は私が見送られる番。
 12時10分、LA発ソウル行大韓航空機。001便。

 何の目的も、計画もなかった私の旅は終わった。とりあえず全米50州に足を踏み入れることができた。ひと口で言うならば、容易な=イージーなメリカ・メキシコ・カナダだった。



   
 





EZア・メ・カ
2-15 アジアへ帰ろう
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
www.mike.co.jp info@mike.co.jp

2001.7.29 UP DATE