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西宮競輪場

取材:2002年1月

 西日本の競輪のメッカとして君臨してきた西宮競輪場が、不況の煽り等を受け、経営不振を理由に平成13年度(2002年3月)をもって廃止することになった。

 発祥当初の西宮バンクは、木製板張りの300メートル走路で、全国的にも西宮だけのユニークな競輪場として、その昔を偲ぶファンも多いことだろう。

 私が西宮競輪に初出走したのは、プロデビュー(1974年6月)した翌々年(1976年6月3〜5日)開催のことだった。

 ちなみにこの時の成績は、初日特選から2・1・rで、バンクは300メートル走路だった。「ルーレットバンク」と呼ばれていたように、兎に角クルクルと回っているうちに、アッという間にゴールしたことを記憶している。
 その後、現在の一周333メートルバンクになって、数々の名勝負が繰り広げられてきたが、2002年3月で五十有余年の歴史が消えるというのは、大変残念という以上に感慨深いものを感じる。

 お隣の甲子園競輪場も同様に廃止となることで、兵庫県から2つの競輪場が一気になくなることは、近畿地区の競輪ファンを始め、選手、競技会等、関係者にとって大きな打撃となっている。
 穴場従業員を一旦解雇して、見直し賃金の再雇用により経営の合理化等を模索してきたが、開催権を持つ17自治体は協議の末、昨年(2001年11月)最終的に「廃止」を打ち出した。
 全国50ヶ所の競輪場のうち、門司、甲子園、そして西宮の3競輪場の火が消える。

 戦後、焼け野原になっていた日本国の復興に向けて、どれだけ「競輪収益金」が貢献してきたか、知る人は少ない。
 経営破綻の銀行に政府は国民の血税は注いでも競輪の建て直しには目もくれない、それが「競輪の宿命」と言われれば何とも悲しい性(さが)である。

 我々、競輪関係者に出来ることは、我が国の一つの文化として生き残りを賭ける残り47ヶ所の競輪場を必死に守り抜くことである。
 「日本が生んだ世界のスポーツ(競輪・ケイリン・Keirin)」をそう簡単になくすわけにはいかない。

 ところで、西宮バンクの構造について詳しくご紹介したい。

 バンクの材質は、鉄製でウオークトップが塗ってある。一周333メートルが118枚の鉄板で組み立てられていて、一つの鉄板の長さは約2.82メートルだ。

 元阪急ブレーブスの本拠地で、野球開幕ともなれば、バンクを取り壊したり、組み立てられたりと、忙しいかったと思う。
 阪急球団が撤退してからは、バンクはそのまま組み立てられた状態だが、クレーンで組み立てられるには、まる1日かかったという。

 待避路の下はエプロンといわれ、これは人工芝とバンクの段差を埋める傾斜である。
 バンクは118枚の鉄板で形成されているが、このエプロンは、118×3=354枚で組み合わせられている。


 西宮バンクはガタガタバンクで「重くて苦手だ」という選手が多いが、私のような地脚型には向いているようで得意なバンクだった。

 昔は荒っぽいレースがあったから、競り合いでインの選手がアウトの選手に押し込まれて、このエプロンから人工芝まで落ちたこともあった。

 勿論、人工芝だから「バッタ」は生息していない。(^^; 

 また、木製バンクの頃、外柵がなかったので、バンクの外に落ちた選手もいた、ということを聞いたことがあるが、定かではない。

 

選手管理棟からバンクまでは、このトンネルをくぐってくる。

 日本一長い一宮競輪場のトンネル通路ほどではないが、2番目に長いトンネル通路だ。

 西宮のファンは熱血で、「野次」がどぎつい。この通路から、その熱血ファンの野次がよく聞かれたものだ。「乞食やろう!」「死んでまえ!」などの罵声は、日常茶飯事だった。
 しかし、そのありがたい野次も今では、聞かれなくなった。(/o\) 

 「あの客、ホントうるせーな!」と思いつつも、ファンの野次があってこそ、競輪の人気があったのだ。

 選手の入退場を見守ってきたこのトンネル。

 そして、今は、その想い出多い西宮競輪場も、ひっそりとして、ただ火が消えていくのを見守るだけとなった。

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