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昭和20年(1945)4月26日生まれの井上博司(イノウエ ハクシ)選手は、今年57回目の誕生日を迎える。

 若手台頭の厳しい競輪界にあって、いま尚、不屈の精神力で現役を続ける同選手にスポットを当てた。

兵庫の修行僧・井上博司 物語

「人生どんなに辛くとも諦めたらアカン」

 取材日:2002.1.31

【井上博司・プロフィール】
(兵庫県・ 25期・B級2班・008096)

住 所

兵庫県神戸市西区

血液型

A 型

身 長

175.0cm

体 重

72.0kg

家族構成

妻 (ヨシコさん)長女(一子さん)長男(伸一さん)

自転車競技歴

1979年 世界選手権自転車競技大全(オランダのアムステルダム) ドミホン競走のスティヤー

弟 子

町田裕志

ニックネーム

ハクチャン

練習地

明石

好きな食べ物

焼肉、アイスクリーム

座右の銘

臨終正念

【サラリーマンから競輪選手へ】

 井上選手は、母一人妹一人の3人家族の長男として育ち、電子科の高校を卒業してから1年半ほどサラリーマン生活をして家計を支えていた。
 自転車が好きで、会社に入社した当初より自転車グループを結成、社報に載せたりするなどアマチュアとして活躍していた。そんな井上選手が、ある日、競輪選手になろうと一大決心をする出来事があった。
 その日、いつものように会社を終えてから明石競輪場で仲間達と練習をしていたが、そこに競輪選手としてすでに活躍していた3年年上の門脇昭市(19期・現在60歳)選手がいた。一旦、練習を終えてバンクの隅で汗を拭う井上選手の横に門脇選手が近寄って来て、こう言った。
「オイ井上、おまえ、カネにもならんのにようやってるな!」と。
 そして、井上選手の傍らに座った門脇選手、おもむろに片手に持っていたバッグの中から札束を取り出すと、一枚、二枚、三枚と指先に唾を付けてその札束を数え始めたのだ。
 井上選手の目は、その札束に釘付けとなった。たまらなかった。いま会社で自分が貰っている給料とは比較にならなかった。

 門脇選手はまるで子供の見ているすぐそばで、ソフトクリームを美味しそうにペロペロと舐めて見せびらかすように、そして、それはまた健全な男子の目前で、妖艶な女性が一糸纏わず肉体をさらけ出しているように、おそらく門脇選手はレースで稼いできた賞金を数え始めたのだった。
 その時、井上選手はゴクンと生唾を飲み込んだに違いない。

 (ひぇー!? 競輪選手になれば、こんなに大金が貰えるのか!)

 門脇選手にしてみれば、礼儀正しく、真面目な井上選手のこと、毎日、一生懸命に練習している姿に好感を覚えていたに違いない。どんなに元気づける言葉より、そして、どんなに良い練習方法を教えてやるより、札束をいま目の前で数えることで(競輪選手とはこんなに良い世界なのだよ)と、努力次第でこんなにも良い世界があるのだということを井上選手に思い知らせてやりたかったのだろう。

 その時、井上選手の心の何処かで燃えさかる何かを感じた。レールの上に乗っかっているような、先が見えている今の会社員としての自分の生活に疑問を感じていただけに、その札束は、井上選手の心のわだかまりを一掃するかのようだった。

 よっしゃー、これだ! 俺は競輪選手になるぞ! そして、苦労をかけたきたお母さんと家族を幸せにしてやる!

 井上選手のその決意は、半年後、結実することになり、25期生としてデビューすることとなった。
 しかし、デビュー戦は534着、2戦目666着と厳しい現実が待っていた。この頃、1カ月に一度しか配分がなかったから、井上選手の心にも焦りが見え始めた。

 (俺はプロでは通用しないのだろうか?)

 そして、デビュー戦から3カ月後の3戦目の初日6着、二日目3着で迎えた最終日、ようやく先行逃げ切りで1着を獲り、井上選手の心も和らいだ。

 その時の思いは一生忘れられないと、井上選手は熱く語った。


 井上選手は昭和42年(1967)8月1日登録の25期生。同期生には、東京オリンピックに出場した山藤浩三、伊藤富士夫、高橋耕作や南昇、畔蒜啓次、荒川秀之介、谷津田陽一など一時代を築いた錚々たるメンバーが顔を連ねていた。

 さて、門脇昭市選手の出会いから、念願の競輪選手になった井上選手に転機が訪れたのは、デビューしてから6年後のことだった。

 妻・ヨシコさんとの出会いだ。ヨシコさんは、西宮・甲子園競輪場で審判のアナウンスをしていたが、親交あった池内正人選手の従姉妹という関係もあり、二人の距離は知らず知らず接近していった。はにかみ屋の井上選手だったが、この時ばかりは一気に差し切り勝ちを収め?(筆者想像 (^^; )目出度くゴール。

 二人のお子さんにも恵まれた。長女の一子さんは、一着を取りたい思いから命名、そして、長男の伸一さんは、ゴール前の伸びを期待して命名した、ということだから、競輪選手としての切実な思いが込められている。

 その二人のお子さんも立派な成人となり、一子さんは花婿募集中、伸一さんは京都大学工学部に在学で文武両道の井上家だ。

 「でもね、善やん(井上選手は私のことをこう呼ぶ)自分の事と違い、子供は幾つになっても心配やねん」と、親として胸の内を語る。
 素晴らしい伴侶がいて、素晴らしい子供達にも恵まれ、井上選手の人生は、幸せ一杯にみえるが、しかし、ここに至るまでの人生は決して平坦な道ばかりではなかった。

 井上選手は、真面目で努力家であることは想像に難くない。しかし、そんな井上選手が40歳も半ばを過ぎてから競輪選手を辞めようかと真剣に思ったことがあったそうだ。それは、レースに勝てないことから生ずるジレンマとプライドだった。

 際だった戦績はないというものの、特別競輪には何度も出場した経験が、自分の不本意な成績を許さなかったのだ。努力することは、厭(いと)わなかった。辛いことも辛抱できた。しかし、結果がでない事への執着があった。

 そして、迷っている夫に対して妻は言った。

「自転車に乗っているあなたが一番生き生きしているわ」と。井上選手は、ハッと我に返った。(そうだ、いま自分から自転車を取ったら何が残るんだ。妻や子供達が、俺の事をジッと見ていてくれる… 諦めたらアカン)

 井上選手の競輪選手という職業に対する思いが、この時、変化した。

「人生どんなに辛くとも諦めたらアカン」

 こうして井上選手は、門脇選手からの出会いから選手になる決意をして、わだかまりを一掃した時と同じように、選手として新たな心境のもと出直すことを心に誓ったのだった。

 しかし、井上選手の競輪選手としての人生は、それからまだまだ波乱万丈の道のりが続いた。

 数年前、妻のヨシコさんが喉頭癌になった。妻の病気に井上選手は愕然とした。この30年、留守宅を守って二人の子供達を育ててくれた最愛の妻の病に、目の前が真っ暗になった。妻は言った。「私は大丈夫よ、練習がんばって!」井上選手は泣いた。妻の為に頑張ろう。死にものぐるいで練習した。妻の苦しみを思えば、どんなに辛くても我慢ができた。
 長男伸一が京都大学に合格した。東京大学も可能だったが、神戸から近い京都大学工学部を選んだ。
 喜びと悲しみが混在する生活のなかで、井上選手は走った。ただひたすら走った。自分ができることはレースに参加し、今まで自分を支えてきてくれた家族の為に一生懸命走ることだけだった。それは悟りを求めて懸命に彷徨う修行僧に見えた。

2002年1月31日 【最終日】

四日市競輪 第2レース
 B級一般 2025m(5周)
 先頭固定競走

 

払戻金 
枠番連勝複式 1-4 360円 (1)
車番連勝単式 1-5 690円 (3)


「通算302勝目」 (2002年1月31日現在)

1着 302回
2着 385回
3着 460回
着外 1872回




【川田隆郎選手が語るエピソード】

 井上さん家族とは、近所ということもあり親しくさせて貰っています。
 練習の逸話は山ほどありますが、中でも有名なのは神戸から三木まで片道30kmを一日3回(午前6時、午前9時、午後3時)計180kmを練習していたこと。
 井上さんが、ある参加した競輪で初日特選で落車して帰郷したんですが、翌朝、明石から標高千メートルの六甲山まで60kmの早朝練習を仲間に見付けられ、競輪に参加しているハズの井上さんがどうしてこんな所で練習しているのかとビックリしたことなど。
 その時、井上さんは「参加選手より、俺は2日余分に練習できた」と嬉しそうに話していたなど。
 また、ある時は、夜遊びの選手が遅い帰宅するところ、井上さんの早朝練習と出会ったことなど、人呼んで「にわとりを起こす男」として恐れられていました。(笑)

 また、まだ井上さんがA級4班の頃、A1昇級(今のS1)に飽くなき挑戦を燃やしていたのですが、2カ月の斡旋停止処分を受け、合宿先で井上さんのベッドの上を覗いたら、何と「執念」という毛筆書が貼ってあり、凄い気迫を感じました。

 兎に角、真面目で家族思い、練習熱心には頭が下がります。

 

 

 妻の病状が回復してきた。一家に笑いが戻ってきた。井上選手は、神に感謝し、そしてまた走った。

 その井上選手に、今度は災難が訪れた。2年前の2000年(平成12年)5月3日、小松島競輪初日B級予選第1レースで、4選手が落車、その中に井上選手が巻き込まれた。

 第三腰椎圧迫骨折、下半身不随の可能性ありと診断され、井上選手は(これで選手生活は終わった)と思った。

 車椅子の生活を余儀なくされた。しかし、井上選手は諦めなかった。苦しいリハビリを続けた。妻も頑張って病を克服した。自分にも出来る。そして家族が支えてくれた。
 3カ月のリハビリの末、4カ月後の8月のお盆にレースに復帰した。驚異的な回復力に周囲は唖然とした。すでに井上選手は競技者として峠を越える55歳になっていた。

【臨終正念】 

 さて、最後に井上選手に座右の銘を聞いた。井上選手は即座に「臨終正念」と言った。

 辞書を開くと「仏道を修行する人は死期に臨んで、心が乱れることもなく、もっぱら菩提の心にまかせるということ。生命の終わりに臨んで平常心を失わないこと」とあった。

 井上選手流の解釈によると「どんなことに当たってもこれが最後だという気持ちを持って頑張りたい」という思いが込められているという。
 まさに、修行僧の悟りであった。

 今、自分がこうしていられるのは「家族の支え」があったからこそ。

 競輪選手35年の歴史は、自分の歴史でありつつ自分を支えてきてくれた家族の歴史でもある。
 決して自分ひとりの力だけでは全う出来なかった、と素直に語る表情は、円熟の境地に達した者にしか言えない言葉だと思った。

 波乱万丈の競輪人生。

 ひとり黙々と走り続ける修行僧は、円熟の境地に達しながらも、いまだ自分との挑戦を拒まず、そして、静かにジャンが鳴り響く時期を待っている。

 「人生どんなに辛くとも諦めたらアカン」

井上博司


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