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 大変遅れていた同業者紹介、今回は2000年5月20〜22日開催の名古屋S級シリーズで一緒に参加していた高橋健二選手 (愛知・30期)をご紹介する。

タカハシ ケンジ
高橋 健二 
選手
愛知県 30期 47歳 A型 S級2班 008566 


 「ケンちゃん」の愛称で親しまれている愛知の好漢、高橋選手は来月(1952年7月13日生)満48歳 を迎える。
 言わずと知れたS級在籍最高年齢の「超ベテラン・超鉄人レーサー」である。
 2000年3月をもって現役を引退された埼玉の小金井光良選手は選手生活50年という不滅の大記録を樹立したが、高橋健二選手にあっては競走激化の近代競輪にあって今なおS級を堅持し、その切れ味鋭い追い込 みはいまだ衰えをみせず、大記録に向かって「努力と節制の日々」を積み重ねている。

 その高橋選手が世にその存在を知らしめたのは、昭和50年(1975年)の第28回日本選手権競輪(千葉ダービ ー)での優勝戦ではなかっただろうか。私は25年前のそのレースの模様を、練習を終えた福井競輪場の控え室で仲間とテレビで観戦していたのだが、高橋選手が後方7番手から一気にカマし、そのまま後続を振り切って優勝したあのシーンは、今も鮮烈な記憶として 脳裏に留まっている。 近代競輪の幕開けは、恐らくあの高橋選手のカマしの優勝から始まったのではないだろうか。
 あれから25年。高橋選手の今日までの活躍ぶりは周知の通りであるが、しかし、ここに来るまでの道のりは、 決して平坦なものではなかった。度重なる落車事故により一時は再起を危ぶまれた時期もあったが、高橋選手はそれらを不屈の精神力で乗り切り、今なおS級2班で活躍する姿はファンならずとも「選手の鏡」として尊敬に値する。 身長167Bと決して恵まれた体ではない高橋選手の一体どこにその原動力があるのだろうか。 それは、強靱な精神力からくる「努力と節制の積み重ね」に他ならい。むろんその天性のバネによるところの素質もあるだろうが、しかし、素質だけならこの世界、掃いて捨てるほどいる。どんな時にもポジティブに思考し、そしていかなる時にも挫折という概念が存在しないからである。絶対諦めない精神力こそ高橋選手の真骨頂である。そしてこれは、幼少のころから既に培われてきたものに違いない。 高橋選手は幼くして父を亡くし、母と男4兄弟の次男として質素な生活を余儀なくされた。高橋選手は兄昭次(現役競輪選手)さんを中心に母を助け、家族の大黒柱となって家族を守った。「よしっ、俺が頑張ってやる!」
 天から導かれたように愛知の名伯楽・黒須修典選手のところに弟子入りした高橋選手は、順調にその天性の素質を開花し、そして第28回ダービーの優勝へとつながって行ったのだった。

 さて、私は久しぶりに名古屋開催でその高橋選手と会った。「さわやかケンちゃん」の名の通り、いつもにこやかな表情を崩さない高橋選手の周りには、愛知をはじめとする中部の若手選手が取り囲み、選手間からも慕われている高橋選手の人間性がここでも浮き彫りにされていた。
 例によって、取材許可を選手管理課とご本人から取り付け、早速、デジタルビデオカメラを回した。 初日第8レース、赤のユニフォームに身を包んだ高橋選手は、同郷の舘泰守(80期)選手に付け予選突破を狙ったが、最終2コーナーから仕掛けた1番車佐々木則幸選手(高知)の捲りをこらえ切れず、高橋選手5着、舘選手9着に終わった。がっくり肩を落とす舘選手の表情からは、尊敬する偉大な大先輩への重責を果たせず、といった感ありで、カメラを回す私にもその無念さが伝わってきた。


初日第8レースは、5着。

 その夜、宿舎で夕食を終えたあと、高橋さんの部屋へ取材方々話を聞きに行った。 高橋選手は昨年後半落車により欠場していたが、それ以来、どうも調子が戻らないと語った。いろいろ治療も試み、取り分けこの開催に向けては練習も積んだし、韓国まで気功と漢方治療を施しに出かけるなどして体調快復に専念したが、自転車が思うように伸びがないことの疑問を吐露した。
 それより高橋選手が気にしていたことは、ファンからのヤジだった。ファンあっての自分、期待を裏切らずに全力を尽くしてレースに臨むことを信条としている高橋選手にしてみれば、やることやっての結果だけにこれ以上のことを求められても自分では仕様が無いと思っている部分もあった。


レース後は、爽やかな表情

 ファンの心理も十二分に理解しているつもりではある。結果がすべてのプロの世界。努力が結果に結びつかないジレンマに思い悩まされながらも、結果の裏側を知らない金網の向こうからのヤジが、今の高橋選手には一番辛く気になるところだった…。
 二日目、第7レース。舘選手と再び乗り合わせることとなった。しかし、結果は舘選手6着、高橋選手8着の惨敗。レース後、二人は言葉少なに敢闘門入り口付近に置いてあるイスに腰を落とした。地元とはいえレースに情けなどない。
 その時の心境は選手なら良く分かる。私は、ご苦労様でした、とカメラを通して声を掛けた。

 最終日、第6レース、6着。 高橋選手の名古屋開催は終わった。しかし、表情は決して暗くはない。終わったことをくよくよ考えてもどうなるものでもない。すでに気持ちの切り換えをしているのであろう。
 様々な障害を乗り越えてきた高橋選手にとって、それはいつもの「試練」にすぎないのである。そして、それが高橋選手をより大きな人間として成長させてきた要因でもある。 答えを出すにはまだ早すぎる。高橋選手の飽くなき挑戦は、禍福とともに継続し、今後とも期待の声も益々高まって行くことだろう。
 我らがケンちゃん、私が尊敬する高橋選手の思いを、失礼を承知で代弁するとするならば、

「納得するまで、俺は走り続ける」高橋健二

2000年5月20~22日名古屋S級シリーズ5,8,6着
2000年5月28~30日甲子園S級シリーズ3,3,


最終日第6レース 1番車、高橋選手
次回出走予定
2000年6月14〜16日久留米記念

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