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イカリ ヨシオ
井狩 吉雄 
選手
滋賀県 35期 49歳 O型 A級2班 選手登録番号008938 2001.2現在


 身長184B、体重87L、靴サイズ28B、肺活量7500Mの大型トレーラー並みの競輪選手、人呼んで「滋賀の鉄人・井狩吉雄」選手が今回ご紹介する同業者である。

 井狩選手は、昭和26年(1951年)5月14日生だから今年(2001年)5月で満50歳を迎える。滋賀県は琵琶湖の南・大津市に在住で、奥さんと長女(24歳の社会人)、長男(名古屋の大学生)、次女(高校生)の5人家族だ。

 井狩選手は小学生の時は野球、中学ではハンドボールと陸上競技をやっていてスポーツ万能、その大きな体を活かして大活躍していた。高校は滋賀県立八日市高校に進学し、当時まだ同好会だった自転車部の先輩から「自転車をやらないか」と誘われ、以来、自転車競技との長い付き合いが始まった。

 同校二年生の時、「広島インターハイ」に出場し「4000E個人追い抜き競走」で3位、同三年生の「長崎国体」の「ロードレース」では2位という輝かしい戦績を残した。その成果は、すぐさま各大学の自転車競技部関係者に知れ渡ることとなり、当時、日本大学、法政大学、中央大学など自転車競技部のある大学の中から、井狩選手は名古屋の名門中京大学に進学することとなった。大学に進学してからもその活躍は目覚ましいものがあり、1000Eタイムトライアルからロードレースまでオールラウンドにこなす器用な選手だった。そんな大学時代の想い出といえば、「カナダ100年祭スポーツ大会記念ロードレース」に日本代表として出場したことだそうだ。

 こうして井狩選手の「強靱な地脚」は高校時代から大学時代にかけて鍛えられ、50歳を迎える今日いまなお、いささかも衰えを見せない。私も幾度となく井狩さんと練習をさせてもらったことがあり、また一緒にロードレース大会にも出場したことがあった。しかし、私も地脚(持久力)には多少自信があったが井狩選手の絶好調の頃の地脚には全く歯が立たなかった。恐るべき「滋賀の鉄人」と、初めてお会いしたその頃から尊敬の念を抱いていたものだった。

 さて、大学卒業間近になると井狩選手は、競輪選手の道を選んだ。

三度の飯より好きな自転車と一生付き合っていたい。

 そんな思いは、いつも井狩選手の心の片隅で屹立していた。そして(競輪選手になろう!)と決めてから、井狩選手の心の中のもやもやも一気に解消されることとなった。当時、純粋に自転車競技を志す者の中には、「競輪」というギャンブルに対して違和感を唱える者もいて、「自転車競技と競輪は違う」と考える者もいた。純粋な自転車競技を志す者達が、競輪というギャンブルの対象と同じにされては迷惑だ、と思うのはごく自然の考え方だった。かく言う私も、高校時代、担任の先生から「競輪頑張って!」と何かの日誌の返答に書いてあったのを受けて、「先生、自転車競技は競輪とは違います!」と反論したことを覚えている。
 しかし、悲しいかな、世の中の受け止め方は、「自転車競技も競輪も一緒じゃないか、何処が違うのかね」とされてしまうのだった。これに対して「競輪はギャンブルで自転車競技は純粋なオリンピック競技でもある」と返答していたのだが、所詮、そんな大言壮語したところで世間の受け止め方は「競輪も自転車競技も一緒」なのである。

 井狩選手の心の中で、そんな鬱積が解消されたのは、世の中の認識がどうであれ「信念を持って自分の好きな道を選ぶことに間違いは無い」と思ったからだ。「大好きな自転車と人生を共有する素晴らしさ」に気が付いたからだ。

「自転車はボクを語ってくれる」 井狩選手は、心の中でそうつぶやいた…。

 井狩選手が競輪学校に入学した35期生の仲間達には、あの日本競輪界が生んだ天才「世界の中野浩一」を始め、大学チャンピオン「松田隆文」、高校からは高村敦、佐野裕志など錚々たる顔ぶれが揃っていた。そんな強豪がひしめく日本競輪学校第35期の中で井狩選手は、1着84回、2着32回、3着13回、着外15回の在校成績第3位の成績で卒業し、昭和50年(1975年)4月、地元琵琶湖競輪を3連勝で華々しいプロデビューを飾った。

 元来の真面目さと面倒見の良さも手伝って、プロアマを通じて交流する仲間も数多く、選手会滋賀支部の副支部長を務めるかたわら中井修選手、中井護選手兄弟、斉藤収選手、善利裕生選手など弟子の育成にも貢献してきた。

【井狩選手に聞く特別インタビュー】

【プロになってからの想い出は?】

 私(井狩選手)が1982年にヨーロッパ一周の自転車旅行をしたときの事です。向こうで知り合ったスイス・ローザンヌ在住のサイクリストの家で泊めてもらったのですが、その翌日、その50歳のおじさんと二人でツール・ド・フランスのレースを観戦するため、ロード自転車に乗って観戦コースまで二人で行くことになったのですが、途中、シャモニーの近くの登りで千切られたのが、競輪で負けた以上に悔しかったことがいい想い出です。
 当時、私は、まだ31歳でしたし、こんな爺さん問題ないと思っていましたが、恐るべき体力でした。さすがヨーロッパの自転車レベルの高さを痛感するとともに、日本に帰ってから初心に返って練習に励んだことを記憶しています。

 競輪の成績に関しては、特別競輪等の出場が25回ほどありますが、1985年3月に開催された立川日本選手権競輪で4438着の成績で最終日に優秀競走に出場できたことが一番の想い出です。このダービー前のトライアルレースでは2回とも決勝に進出し、同大会出場権のベスト27の中に入り、初日の特別選抜競走からスタートした事が最も活躍した時期でしょうか。

【普段の練習内容は?】

 瀬田から信楽焼きで有名な信楽方面を廻って帰ってくるコースが主ですが、そのまま三重県方面に遠乗りするときもあります。バンク(琵琶湖競輪場)で練習するときもありますが、街道練習が好きです。

【将来の夢は?】

 兎に角、自転車が好きですから、引退しても自転車にかかわっていたいです。チームのメカニック担当でトラック競技やロードレースが観れたらいいですね。

【信条は?】   継続は力なり

【当面の目標は?】 55歳でA級に在籍すること。

 

 

 


井狩選手3月のレース参加予定

2001年3月4〜6日 大垣競輪
2001年3月11〜13日 甲子園競輪

 2001年2月16〜18日開催の豊橋競輪で久々に井狩選手と一緒の参加となった。井狩選手は、前走の熊本(2001年2月7〜9日)開催の初日に落車棄権して今回の参加となったが、その影響もあるのだろうか、心なしか、いつもの元気がなかったように思えた。

 井狩選手の今回豊橋競輪での成績は、初日選抜9着、二日目選抜4着、三日目選抜5着だったが、今から1年2ヶ月前の1999年12月23〜26日の佐世保競輪では、見事3631着で優勝し、周囲を驚かせる復活劇を魅せており、持病の腰痛と闘いながらも、いずれ必ず巻き返してくることは間違いないだろう。


 決して派手ではないが、ひたむきに努力を積み重ね、そして信念を持って歩む井狩選手の生き方は、敬服と尊敬の念を抱かずにはいられない。

 人生歴50年、競輪選手生活満26年を数える滋賀の鉄人井狩吉雄選手にとって、今はまだ人生の通過点の段階である。井狩選手が自転車を一生の友とし、そして、その仲間達と共に生きる喜びを誰よりも知っているのは、ほかならず井狩宅で待っている自転車達かも知れない。

「自転車は、ボクを語ってくれる」

井狩吉雄



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