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第2章 全米ツアー

第1期 アメリカ大陸を走り出す

アメリカへの第一歩

1987年6月29日、ハワイ州ホノルル空港に記録すべき第一歩を踏み出した。
 すべてが初体験だった。飛行機・日付変更線・入国審査・オーバーナナハン・右側通行・キャンプ生活・モーテル・YH(アメリカン・ユース・ホステル)etc…。ある意味ではガイドブック通りのものがあった。また、本で読んだり話で聞いただけでは理解できなかったものを実体験を通して一つずつ自分のものにしていった。
 ロサンゼルスに5日間滞在し、モーターサイクル・キャンプ用品などを揃えた。
 毎日が新鮮だった。巨大な街は刺激的だった。安いガソリン、赤信号でも右折するシステム、片側5車線もある市内のフリーウェーにはびっくりしたが、頻繁に交通渋滞があるのにはもっと驚かされた。
 カリフォルニア州・オレゴン州・ワシントン州と西海岸を北上した。この辺りは日本人町が多く、初心者にはちょうど良かったかもしれない。夏は湿度が低く、快晴が続くので気分はそうかいだ。アメリカでは最も住みやすい所かもしれない。
 今考えると発音も文章もメチャクチャな英語を使っていたようだ。それでも何とかなるのだからおもしろい。
 シアトルから東へ向かい、アイダホ州を越えてモンタナ州で引き返し、渡米17日目にカナダ入国となった。
 ただ闇雲に北上した感じで国立公園(ヨセミテ、セコイヤ)などの見所をミスしてしまったことを後悔している。ロサンゼルスでじっくりと情報を集めてから走り出した方が良かったかもしれない。
 大都市は、北(N)東(E)西(W)南(S)からニュース(NEWS)が集まって来る所なのだから。


イミグレーション通過


 梅雨の真っただ中、1987年6月29日(月)は雨のち曇り

 親しい友人だけが、横浜シティ・エア・ターミナルまで見送りに来てくれた。地方に住む両親には「ちょっとアメリカに行ってくる」としか言わなかったので見送りはなかった。

青空とヘルメット

生まれて初めて乗った飛行機。中では眠ることは出来なかった。21時30分成田発大韓航空002便。
(ハワイ州 6月)

 荷物を減らすため、ライダーブーツ・皮パンツ・皮ジャンパーの重装備だ。きつめのパーマに加え1ヶ月以上ひげを剃っていないため山賊のようだ。大型スポーツバッグとカメラバッグはずっしりと重く、ウエストバッグにはかなりの金が入っており緊張した。
 高速リムジンバスは順調に横浜から首都高を走り十分すぎる余裕を持って成田空港に到着した。
 空港でも緊張がほぐれるどころか、ますます緊張感が高まった。腹の具合が思わしくない。友人の一人が会社から成田まで駆けつけてくれた。私に会うのは最後だと思っていたようだ。初めての海外旅行だといってルンルン気分とはいかない。単身で何のあてもなくアメリカに乗り込むのだから…。
 21時30分発大韓航空002便の受付カウンターで思いがけないプレゼントを手にした。『ハレノ カドデヲ イワウ オトコ マイク ココニタツ』の電報を打った友人がいたのだ。このプレゼントには武者震いした。
 初めて乗るジャンボ・ジェット機の座席は思っていたより狭かった。通路側に座っていた日本人青年に
「31Eはどこですか」
と聞くと全く反応がない。おかしいと思い、一応英語で聞くとキチンと答えが返ってきた。彼はマイク・フーという中国系アメリカ人だった。かの有名なU・Cバークレーの学生で、一週間の日本旅行を終えてサンフランシスコに帰る途中だという。私にとって最初のアメリカ人の友人となった。
 機内ではほとんど眠ることができなかった。私はとても小心者だ。何度か機内食や飲物のサービスがあったが味気ないものだった。中央の席のため外も見えなかった。


 日付変更線を東へ越え、同日(6月29日)の朝、ハワイに着陸した。いったん、飛行機から降ろされイミグレーション(入出国管理事務所)に並ばされた。ハワイの飛行場ではハワイアン美女がレイを掛けキスで祝福してくれると思っていたが、真っすぐ建物に入りガッカリ。
 イミグレーションまでの移動は3連結のバスだが、ビヤ樽(だる)のような黒人女性がドライバーだったのは感動的だった。これがアメリカなのだ。
 イミグレーションでは、入国目的・滞在期間・職業・所持金・友人の有無・働く意思などを質問された。係官は度の強い眼鏡を掛けた小柄な日系男性だった。眼鏡の奥から私を値踏みしているようで嫌だった。こちらにもやや後ろめたいものがあるので内心ビクビクだ。
 ガイドブックに書いてある通り笑顔を浮かべて
  「Sight seeing(観光旅行です)」。
  「Two weeks(2週間です)」。
  「Photogrpher(写真家です」。
と答えていたがすんなり通してくれない。
 英語がダメと判断され、無線で通訳を呼び本格的に入国審査が始まった。カメラバッグもその場で開けて調べられた。夏のハワイに皮ジャンパーで乗り込んだのが良くなかったのかもしれない。それとも顔が悪かったのかも。
 なんとか渋々ながら入国許可が下り、カスタムズ(税関)を通り、機内に戻ることができた。ハワイの印象は全く悪いものになってしまった。何も良い思い出などない。
 再び大韓航空002便は太平洋に舞い上がり、同日午前8時過ぎにLAX(ロサンゼルス国際空港)に滑り込んだ。
 私はほとほと疲れていた。ほとんど睡眠を取れなかった。あの狭い座席に15時間も耐えられたのが不思議なくらいだ。ブランディ・ワインを飲み過ぎて気分が悪い。


ビッグ・マシンを手に入れろ

 LAX(ロサンゼルス国際空港)内を移動していると後ろ声をかけられた。横浜在住の中年男性で鴨川と名乗った。私を旅慣れた人間だと勘違いし適当なホテルを知りたかったらしい。
 お互い初めてのアメリカだし、ツインの方が割安なのでいっしょに探すことにした。旅は道連れ、世は情。そで触れ合うも多生の縁。彼は20歳代のころオーストラリアで働いていたらしく英語が達者で助かった。
 LAXを一歩出ると長身の白人がパンフレット片手に近づいてきた。こんなに良いホテルなのだと写真を見せる。値段もツインで47ドルと手ごろなので彼のシャトルバスに乗り込んだ。言ってみれば、温泉旅館の“ノリ”だ。
 シャトルバスで5分のトレイド・ウィンド・ホテルはプール、レストラン付きの立派なものだった。通された部屋は2ベットルームで快適だった。今思えば1年間の全米ツアー中、1、2に良いものだった。
 ひとふろ浴びた後、二人で歩いて食事に出た。右も左も分からない所だけに大いに緊張し、注文することにも苦労した。ケチャップもキーチャップと言わないと通じなかった。
 帰りにグロッサリー(食品・酒・日用品を扱う比較的小さな雑貨屋)でビールを買った。
 事件はその直後に起こった。店から出るとヘンな黒人が小銭をくれと言い寄って来た。都市にはおびただしい数のホームレス・ピープル(浮浪者)やベガー(乞食)がいる。大多数は黒人だが白人も混じっている。私は無視して歩き続けたが、鴨川さんは少し話し込みクォーター(25セント硬貨)を与えた。
 買い忘れたものがあると店に戻ると先程の黒人が胸倉をつかまれ、今にも張り倒されそうになっていた。韓国系の店長は毛管が浮き出し鬼のような形相でこぶしを固めていた。
 私達は言葉を交わすこともなく目配せすることもなく、瞬時に振り返りその場を後にした。
 アメリカに来た初日、いや数時間後にしては少々ショッキングだ。長い長い6月29日の夜もなかなか寝つくことができなかった。


1987年6月30日(火)曇りのち晴れ。

 ほとんど眠れないまま朝を迎えた。ホテルの無料シャトルバスでLAX(ロサンゼルス国際空港)に出たあとアナハイム行きのバスに乗った。日本から予約してあったモーターサイクルを買うためだ。念のため確認の電話も入れておいた。おもしろそうだというので鴨川さんも同行。
 バスはフリーウェーを飛ばしてディズニーランドのあるアナハイム市を目指した。関東平野程の広さに鉄道の駅が1つと複数の飛行場を持つロサンゼルス地域が少しずつ実感されてきた。完全な車社会なのである。
 1時間ほどでアナハイム・ホンダ(モーターサイクルの他ジェット・スキーなども扱っていた)に到着した。すでに書類が出来上がっており、国際免許証ナンバー・生年月日・サインでOK。車体価格に加え、売上税(6%)、車両保険、登録料、新車整備代しめて5,700ドル。
 1,000ドルのT/C(トラベラーズ・チェック)5枚と500ドルのT/C2枚で支払った。手持ちのT/Cがいきなり心細くなったもののビッグ・マシンが手に入った。新車のHonda・シャドー1100ccが私の足となった。
 オイル、ラジエター液、バッテリーもチェック済みですぐに乗っても良いという。なんとナンバー・プレートはついていない。ノー・プレートで乗っても良いのかと何度も質問するが、なぜそんなことを聞くのかといった感じ。ここは日本ではなく、アメリカ合衆国なのだ。
 カリフォルニア州の新車の場合、購入3ヶ月後までにナンバー・プレートとピンク・スリップ(所有証明書)が郵送されるという。私は住所がないので店の住所を借りて登録した。
 巣Zントャ、鴨川さんを乗せて走り出す。ここでは、ノー・ヘルメット、二人乗りで高速道路を走ることは許されている。
 前日の夜中に初めてロサンゼルスに来たばっかりなのに、もうビッグ・マシンを転がし始めた。
 ここは自由の国だ。


「大きく左!」
「小さく右!」
と、声に出しながら走った。右側通行にはすぐに慣れた。
 シャドー1100の1100ccVツインの強力エンジンだけに二人乗りでも楽勝。フリーウェーでアクセルを開くと、軽く時速130kmを超えた。リアシートの鴨川さんはノーヘルのため、うさぎの目になってしまった。
 マクドナルドでくつろいでいると向かいの銀行の様子がおかしい。パトカーが集まり、ヘリコプターが軽く旋回し始めた。ライフルを持ったポリスやカメラマンの姿も現れた。どうやら銀行強盗らしい。
 今買ったばかりのシャドー1100がハチの巣になっては洒落にならない。逃げるように現場を離れた。
 リトル東京を観光、ホテルに戻ると横浜の知人(当時良く行っていた日ノ出町のグッピーのお客さん)から電話が入った。仕事でロサンゼルスへ行くと聞いていたので、連絡を取り合っていたのだ。私は一人でレドンド・ビーチのピア(桟橋)にあるトニーズというレストランに向かった。シーフードを腹一杯食べ深夜にホテルに向かった。
 ロング・ビーチ・フリーウェーの降り口を間違えたようでホテルにたどり着けない。ホテルのある通りにすらたどり着けない。日本とは街の造りが違うので探し方も分からない。真夜中で地図も持っていないためどこにいるのかも分からなくなった。
 2時間程、夜の街をさまよった。ガソリンが減ってくるのも不安さを増した。いったんリトル東京の近くまで走り夕方通った道を慎重に思い出してホテルにたどり着くことができた。全く生きた心地がしなかった。
 前日(6月29日)の夜にロサンゼルスに着いてからグロッサリーでの黒人、銀行強盗、深夜の黒人街とトラブル続きだ。後で知ったのだが、空港地区は治安のよくない所らしい。もっとも、ロサンゼルス周辺で絶対安全な所などないのだ。
 実質的には1日しかたっていないのに1週間もいたような気がした。


1987年7月1日(水)曇りのち晴れ

 日中の日差しは強烈だが湿度が低く日陰に入るとぐっと涼しい。日本の夏のように不快ではない。暖房のない家はないが、クーラーのない家庭も多い。
 チェック・アウトをマスター・カードで済ませた。ホテルに荷物を預け鴨川さんと買い物に出かけた。
 ジャイアントという名前のスーパー・マーケットは文字通り巨大だった。野球場並の駐車場に始まり、広々とした売り場、大型ワゴンカートがすれちがえる通路、渦高く積まれた商品。すべてがアメリカ的だった。
 車だって大きい。2000ccの乗用車を小型車というのが良く分かる。軽自動車など1台もない。キャンピングカーは路線バスくらいの大きさだ。道の広さ自体にはそれ程驚かなかったが、大きな通りでは真ん中の1車線が左折用に遊ばせてあるのには大陸を感じた。
 昼過ぎ、ホテル近くのモーターサイクルショップへオイル交換を頼みに行った。昨日(6月30日)買ったばかりとはいえ、すでに200km以上走っている。長い旅になるため整備には神経質にならざるを得ない。
 オイル交換ひとつ頼むのに1時間もかかった。なぜなら、英語がうまく話せないのに加え、広い店内をタライ回しにされたからだ。最初、新車、中古車の売り場へ行くとオイル、パーツ売り場へ回され、さらに裏手の整備サービス場へ行かされたのだ。
 アメリカではデパートメント・システム(役割分担制度)が発達しているため、自分の業務以外は全く関知しない。銀行や警察でもそうだ。
 この日はサンタモニカの北のトパンガ海岸のモーテルにチェック・インした。朝からハムエッグしか食べていなかったが、ダーティ・マガジン(グラビア雑誌)を見てベッドに倒れ込んだ。
 目が覚め、ビール缶でチキンラーメンを作って食べた。
 ひとり旅が始まったのだ。


1987年7月2日(木)曇りのち晴れ

 軽く市内観光をした後、全米最大のアウトドア・ショップ・REIでキャンプ用品一式をそろえた。ビッグ5チェーンのほうが安いようだ。
 適当にサンペドロ市(ロサンゼルスの南へ車で1時間)のモーテルにチェック・インした。この辺は高級住宅街で人も車も少ない。連日の疲れがでてベッドで眠り込んでしまった。
 大音量のロックン・ロールやカントリー・ミュージックで起こされ、隣のバーへ行くとワンマンバンドが演奏していた。ダンスを楽しむ夫婦やカウンターで一杯楽しむ連中が先客だった。
 1本3ドルのコロナ・ビール(メキシコ産・輸入ビールで人気ナンバーワン)を注文した。私は単にパーソン(人)でそれ以上でも以下でもないと感じた。

1987年7月3日(金)晴れ

青空とヘルメット

森の中のキャンプ場。太平洋に沈む夕日がまるで映画のワンシーンのようだった。
(カルフォルニア州 7月)

 スッキリと目覚めた。AAA(アメリカ自動車連盟)でアラスカまでの地図、サンフランシスコの市街地図、キャンプ・ブックをもらった。AAAはライダーにもとても親切だ。JAF(日本自動車連盟)の会員証を見せるとすべて無料になるので助かる。
 いよいよ本格的なツアー開始だ。景色が良いというので、パシフィック・コースト・ハイウェーを選んで北上した。午後3時にはロスパドレス国定公園内に入った。
 生まれて初めてのキャンプ。天気が良いので助かった。どうして良いのか分からず近寄って来た子供と話していると、管理人のおばあさんがいろいろ教えてくれた。買ったばかりのテントが立てられず、ヤマハXZ550に乗るドイツ人夫妻に立ててもらった。
 この日のことを次のように日記に書いている。

『まるで映画のようだ。海岸を走る道路から少し入ると森の中のキャンプ場。世話好きのあばあさん、人の良さそうなライダー夫婦、夕日を見ながらの抱擁。
ビッグ・マシンを買ってアメリカを走る。こんな子供じみた夢が現実になっている。うれしいというよりも怖い。
 アメリカの自由度には恐れ入る。』


独立記念日

1987年7月4日(土)晴れ

 朝の冷え込みがひどく5時に目が覚めてしまった。大陸型気候のため、日較差が20度程は当たり前だ。日中どんなに暑くても早朝に寒さを感じないことはない。特にキャンプ場の朝は冷える。
 早々にサンフランシスコ目指して走り出す。ロサンゼルス−サンフランシスコ間は3本のルートがある。海岸に近いほうからP・C・HWY(パシフィック・コースト・ハイウェー)、I−5(インターステーツ5号線)、CA−99(カリフォルニア州道99号線)の3本だ。
 私の選んだP・C・HWYは海岸沿いの景色の美しい道だが、対面通行に加えタイトなコーナーが続き多少危険だ。
 I−5はカナダ国境からメキシコ国境まで貫くフリー・ウェーで中央分離帯が所によっては数100mもある。
 CA−99はI-5とほとんど同じだが田舎なので交通量が少ない。セコイヤ国立公園、ヨセミテ国立公園への入り口にもなっている。
 突然、ガス欠!
 シャドー1100は予備タンクが無いため、一度止まると全く動かない。フューエル・メーター(燃料計)はとっくにE(エンピティ=空っぽ)を越えていたがどこまで走れるか試してみたのだ。もちろん、補助用ガソリンを4リットル持ち運んでいた。それを給油して最寄の町まで走った。
 町にたどり着いたもののガソリンスタンドは休み。この日はアメリカ独立記念日だったのだ。渡米前から独立記念日をサンフランシスコで迎える構想はあった。しかし、スタンドが休みなのは困ったものだ。
 マーケットの店員に聞くと営業しているスタンドがあると言う。喜び勇んで飛んで行き、シャドー1100のタンクと補助用容器にたっぷりと給油した。給油は早め早めに行わなければならない。荒野でガス欠でもしたら死にかねない。燃費は19km/lだった。


 雲ひとつ無いカリフォルニア晴れの下、P・C・HWY(パシフィック・コースト・ハイウェー)を北上すると昼過ぎにサンフランシスコに到着した。
 ベイ・ブリッジを渡り、学園都市バークレイでマイク・フーのアパートを探した。マイクは飛行機で隣り合わせた中国系アメリカ人だ。アパートはすぐに見つかったが彼は留守だった。
 バークレイ市内のコインランドリーで洗濯することにした。使い方は知っていたが、かわいい金髪の女の子がいたので彼女に聞いてみた。シンディはジャーナリズム(報道、通信)を専攻する学生だったが、カルフォルニア州から外に出たことがなく、東部の州名を知らないのには驚いた。お礼に日本の絵はがきを贈った。
 マイクと連絡が取れないため、サンフランシスコ市内へ行った。ベイ・ブリッジは片側6車線もある大きな橋で立体通行になっている。下を通る時は無料だが上を通るときは有料だ。とはいってもたったの50セントに過ぎない。
 サンフランシスコは急坂が多く道が込み入っていて走りにくい街だ。街並みは石造りで美しい。ゲイ(同性愛者、ホモもレズも含む)が多いと聞いていたが私は会わなかった。
 ユース・ホステルを探してたどり着くと満員で断られた。近くのモーテルをチェックしたがすべてノー・ベーカンシー(空室なし=満員)ですっかり夜になってしまった。
 7月4日は夏休みの土曜日に独立記念日が重なり、どこも満員だ。必死に探し回り全米チェーンのトラベルロッジに部屋がとれたのは午後10時だった。1泊57ドルを支払うとロビーのいすにへたり込んでしまった。
 午後4時にはチェック・インしなければ後の祭りだ。知らない夜の町をうろつく程、最悪なことはない。遠くから打ち上げ花火の音が聞こえてきたが、外へ出る気力はどこにも無かった。


マイクとの再会

1987年7月5日(日)晴

青空とヘルメット

学園都市として非常に居心地が良い。街角で演奏する若者も街の風景として馴染んでいる。
(カルフォルニア州バークレー、7月)

 疲労と恐怖からかぐっすりと眠った。5日間ですでに1,500km以上走っていた。かなり痩せてきたようだ。
 昼ごろ、マイクと電話連絡がつき、翌朝アパートで会う約束をした。早々バークレイ市内のモーテルにチェック・インした。
 学園都市バークレイは学園紛争発祥の地としても多数のノーベル賞学者輩出の地としても有名だ。西海岸ナンバーワンといわれるU・C・バークレイ(カリフォルニア大学バークレイ校)といえば聞いたことがあるだろう。水泳オリンピック代表の長崎宏子さんも留学していた。
 近年、マジョリティと呼ばれる白人学生の割合が低下し、マイノリティと呼ばれる有色人種系の学生が増えている。国の方針として黒人系やラテン系の学生を優先的に入学させているそうだ。アジア系の台頭も著しい。
 ちなみに、町一番の大通りはユニバーシティ・ストリート(学園通り)という。
 日曜日ということで大道芸人や露天商が町に繰り出し、活気に満ちていた。売り物は手作りのアクセサリー類が多い。
 公園にはフリー・マーケット(青空市場)が開かれていた。衣類やアンティック・グッズが所狭しと並べられている。警備に当たるポリスの姿も見えた。
 大学構内では訳の分からないビート・バンドが延々と演奏を繰り返し、無心に踊っている者もいる。リズムの中心は黒人だったが白人も混じっていた。
 この日初めてパトカーに捕まった。ノー・プレートの事かと思ったら右端を走り過ぎているというのだ。右端は駐車スペースなので走行禁止だという。
 国際免許証を出すと気を付けるようにと許してくれた。これ以後も何度か国際免許のおかげで助かった。


1987年7月6日(月)晴

 早朝マイクのアパートで飛行機以来1週間ぶりの再会を喜び合った。彼のアパートは2LDKでルームメイトと住んでいた。荷物を預け、ベイ・ブリッジを渡りサンフランシスコ観光に出かけた。
 ジャパン・タウンで住友銀行に入った。手持ちのT/C(トラベラーズ・チェック)は2,000ドル残っていたが、2ヶ月もすればなくなってしまう。クレジット・カードでT/Cが買えないものかと試みてみた。
 果たして、VISAカードでT/Cを購入することができた。どこの銀行でもクレジット・カードでT/Cは買えるという。これで当面の金の心配がなくなった。
 グレイト・パーク公園でドイツ人のマーク(21)に出会い1日を過ごした。彼はカワサキLTD440に乗ってニューヨークから来たらしい。ライダーと話をするのは楽しいものだ。ケーブル・カー博物館やチャイナ・タウンを見て回った。
 公園でジュースも水も飲まずにパンを食べた。彼はチーズを厚めに切ってサービスしてくれたが、正直言って私はパンもチーズも嫌いだ。
 夕刻、マイクのアパートに戻った。彼は隣のオークランド市のチャイナタウンに連れて行ってくれた。愛車はポンコツのビートル(ドイツ車)だ。北米の大都市にはいくつかのチャイナタウンがあるが、オークランドはほとんど知られていない。
 彼は、日本旅行の際、私の愛する横浜中華街も観光した。その時、良いものを見つけたと話し出した。中国系アメリカの彼に珍しい良いものとは何だろうと考えた。
 なんと彼が『レプリカ』と呼ぶロウ作りの商品見本のことだ。アメリカのレストランは、文字のメニューだけがほとんどで、気の利いた店でも写真があるだけ。ロウ作りの食品サンプルは日本のオリジナルかもしれない。


州都サクラメント

1987年7月7日(火)晴

 マイクにお礼を言い、サクラメント(カルフォルニア北部にある州都)に向けて旅立った。
 アメリカには多くのプロ野球、プロ・バスケット、プロ・アメリカン・フットボール、プロ・ホッケーのチームがあり、それぞれが本拠地を持っている。おらが町にどんなチームがあるかが住民の自慢の種で多いほど大都市といえる。
 カリフォルニア州にはプロ野球がある大都市が北からサンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴと3つもある。しかし、州都ははるかに小さいサクラメントだ。
 アメリカは全体が計画都市だけに政治機能、経済機能、文化機能などが分散している。アメリカ合衆国の首都がニューヨークではなくワシントンD.Cであるのが良い例だ。
 ニューヨーク州の州都がニューヨークではないのを初めロサンゼルス、シカゴ、ヒューストン、デトロイト、ダラス、セントルイス、カンサス、シアトル、ラスベガス、アンカレッジといった大都市はいずれも州都ではない。
 州都サクラメントは人通りや車がそれほど多くなく街並みも整っており美しい。スーツ姿の人が多く政治、行政の街ということがありありと分かる。ポリスが目立つのも州都の特徴の一つだ。
 大きな郵便局から絵はがきを20通出した。渡米前に壮行会を開いてもらい多くの友人からカンパももらっていた。アメリカには住所がないので返事が届くはずはないが自分の存在をアピールしたかった。エアメール(航空便)で33セント、封書で44セント(1988年の値上げでそれぞれ36セント、45セントになった)は日本の半額だ。
 初めてメキシカン・フードを食べ公園で休むことにした。公園のステージではジャズバンドが昼休みを盛り上げていた。人々はビールやワインを片手に楽しんでいた。私もスポーツバッグから缶ビールを取り出した。陽気な黒人が話しかけてきた。彼は日本人妻と暮らしていると言い、とてもフレンドリーだった。


 その時、大型バンのパトカーが入って来た。大柄な白人のポリスが近づいて来て、このモーターサイクルは誰の物かと聞いた。
 次の瞬間、私の右手にあった缶ビールを取り上げ芝生にあけてしまった。缶は開けていたがまだ1滴も飲んでいなかった。さらに言えば16オンス(500ml)のロング缶だった。
 続けて、すぐに出て行けと命令した。何が何だか分からず後ろを振り返ると、さっきまで話していた黒人をはじめビール、ワインで楽しんでいた人々は、一人残らず姿を消していた。
 後で分かったのだがアメリカ、カナダでは公園、ビーチ、道路での飲酒は厳しく禁じられている。実際はかなり飲んでいる人がいるが一応紙袋に入れている。野外のカフェなどでアルコールを出す店もあることはあるが、必ず柵で仕切りが作ってある。また、未成年(ほとんどの州は21歳未満)に対するチェックは信じられないほど厳しい。
 毎年、CNN(24時間ニュースだけの放送局=アトランタが本部)では上野公園の花見の模様を報道しているが、あれをアメリカでやると完全に犯罪になるらしい。酔った勢いで桜の枝でも折ろうものならブタ箱入りだ。
 嫌なトラブルがあるととたんに街の印象が悪くなるものだ。すぐにサクラメントを後にしI−5(インターステーツ5号線)を北上した。
 本格的に夏を感じる1日だった。ノーヘルで走ったため、日焼けで顔がつっぱる。
 フリーウェーにはガソリンスタンド、レストラン、ホテル、キャンプ場、病院の案内板が立っているので便利だ。それも店の名前まで表示されている。ほとんどがチェーン店なので分かりやすい。適当にキャンプ場の表示に従ってフリーウェーを降りた。
 早めのキャンプ・インだったこともあり9時には寝てしまった。一人のキャンプ場ですることは何も無い。

ハチにも負けずオレゴンへ

1987年7月8日(水)晴

 10時間以上も睡眠を取った。無性に眠くレスト・エリア(フリーウェー端の休憩所、トイレだけの所が多い)で昼寝することもあった。
 カリフォルニア州北部からオレゴン州にかけて美しい森林地帯が広がっている。緑深い高原を片側2車線のフリーウェーがカーブを描き続けている。アメリカにもカーブもあれば峠もある。だが、楽に100km/hは出せる。日差しは強いものの空気は乾いていて走るときは手袋と皮ジャンパーを手離せない。
 軽快にシャドー1100を走らせていると左の二の腕に痛みが走った。虫がぶつかってくるのは日に一度や二度ではない。ヘルメットやヘッドライトは言うに及ばずジャンパーやパンツにも無数の残がいがこびりついている。全米ツアー中、何度皮ジャンパーを洗濯したことだろうか。
 しばらく走っていても腕の痛みがとれないどころかますます大きくなってきた。シャドー1100を安全な路側帯に止めてみた。なんと腕の内側の柔らかい部分にハチの針が刺ったままではないか。皮ジャンパーのそでのすき間からハチが飛び込み、刺したのだ。
 どんなハチが刺したのだろうか。北米には毒バチはいないのだろうか。腕がだめになるのだろうか。私の人生も幕を閉じてしまうのだろうか。いろいろな思いが頭をよぎった。
 幸い大事にはならなかったが、日増しにハレは大きくなり完全に元に戻るまで10日もかかった。
 初めて州境を走破しオレゴン州に入った。州境といっても別段変化はない。『ウエルカム・ツゥ・オレゴン』(オレゴンへようこそ)の看板があるだけだ。
 食料やビールまで売っている民営のキャンプ場へ入った。マネジャーは「ワタシハ、ニホンゴガシャベレマセン」と外人独特のイントネーションで日本語をしゃべったが、それ以外はひとことも日本語をしゃべらなかった。


初めてのY・H


1987年7月9日(木)曇りのち雨

青空とヘルメット

日本のユースホステルとはかなりスタイルが違う。食事は基本的に自分で作る。ドイツ人と日本人が多い。このホステルは、10月にも利用した。
(オレゴン州ポートランド 7月)

 テントを仕舞いI−5を(インターステイツ5号線)を北上し始めた。
 いつも通りフリーウェーのレスト・エリアで休んでいると妙なものを発見した。
 無料のコーヒーを配りながら「ミッシング・チルドレン・キャンペーン」というのをやっているのだ。全米では毎年百万人以上の子供が家出したり誘拐されたりしている。その子供たちに関する情報を集めるためにトラックやホテルのロビー、牛乳パックなどにも写真入りの広告を出し専用電話を設けているのだ。
 聞くところによると実子誘拐(離婚し親権を失った親が自分の子供を誘拐する)がかなりの数にのぼっているという。
 実子誘拐を請け負う秘密組織さえあるといわれる。アメリカの恥部をかいま見る思いだった。
 オレゴン州最大の都市ポートランドは中央をコロンビア川が流れる美しい街だ。サンフランシスコ以来の本格的都市で無性にうれしかった。白人の割合が多く落ち着いた感じだ。
 Y・Hを探していると急に激しい夕立ちが降り始めたが幸運にもY・Hが見つかり軒下に逃げ込むことができた。雨の少ない西海岸にきてから初めての雨だった。
 初の国際Y・Hということで何かと不安だった。日本のY・Hと違ってミーティングや食事のサービスはない。キッチンが開放されており各自が料理して食べる。寝室は二段ベッドが並び、トイレとシャワーが奥にあった。
 掃除が義務になっており、担当を済ませないと会員証を返してもらえない。昼間は全員外に追い出されるシステムだった。
 居間でくつろいでいると日本語を話すキャロルさんが現れて車で市内観光へ案内してくれた。アメリカ人は不親切だといわれるが親切な人も多い。私は帰国後、なるべく外国人旅行者に親切にするようにしている。
 彼女の車は古いビートル(ドイツ製)で少々不安だった。


日本人ライダー


1987年7月10日(金)曇りのち晴

 二段ベッドの上の男のいびきが大きくてほとんど眠れなかった。数日移動が続いたので連泊することにしていた。
 ローズ・シティ(薔薇の町)・ポートランドを観光するため、カメラだけ持ってダウンタウン(中心街)へ出かけた。残りの荷物にチェーン・ロックを掛けることも忘れてはならない。
 コロンビア川にはいくつもの橋が架けてあるが、そのうちの何本かはスチールブリッジと呼ばれる網状の鉄がむき出しのものだ。スリップしそうで恐怖感を覚えた。ニューヨークにもあったが恐怖感は同じだった。あれはモーターサイクルの存在を無視しているとしか考えられない。
 有名なバラ園で地元のライダーに話しかけた。黒人1人、白人2人で同年配だった。しばらく話しているとパイプたばこを回し飲みし始めた。私は直感でマリファナだと分かった。3人とも悪びれた様子はなかった。1周目は断ったが、2周目は断りづらくちょっとだけ吸ってみた。大嫌いなピーマンのようなにおいがしてまずかった。実は私は嫌煙団体のメンバーだ。それ以後何度か勧められたが断るようにした。
 日がすっかり落ちたころ、HondaVマグナ(水冷V型4気筒1100cc)のライダーが入ってきた。彼はカトウと名乗る日本人で体も大きく真黒に日焼けしていた。ロサンゼルスで宝石の専門学校を卒業し、3ヶ月かけて全米ツアーに出たという。南部、東海岸から回りすでに20,000kmを超え、ロサンゼルスへ戻るらしい。
 彼からテキサスでの雷雨、フロリダでの裸走行、ニューヨークの自由の女神などいろいろな情報を得た。英語もうまく口語表現などを教わった。もう使わないからと蚊取り線香も貰った。
 日本人の旅行者は増えたといってもライダーに会うのは初めてだ。ツアー中に出会った日本人ライダーはたった4人だけだ。彼は現在(1988年)、大阪でアメリカから持ち帰ったマグナを乗り回している。


夏のシアトル


1987年7月11日(土)晴

 夏の西海岸はカラッとしていて最高だ。特に緯度が高くなるにつれて日が長くなり9時過ぎまで明るい。
 昨夜出会った日本人ライダー・カトウさんといっしょにポートランドのダウンタウン(中心街)に出た。マクドナルドでブランチをとり私は北へ彼は南へ旅立った。同方向だったら楽しい旅になっただろうに残念だ。
 I−5(インターステイツ5号線)を250km北上しシアトルに着いた。首都ワシントンD.C.は東海岸にありシアトルのあるワシントン州と間違えてはならない。シアトルは高層ビル、ドーム球場(キングドーム)が美しい坂のある港町だ。東洋系住居の割合も高い。 Y・H(ユース・ホステル)のあるYMCA(キリスト教青年会。ホテル、スポーツジムを経営している)ビルを探したが見つからない。休憩中のファイアマン(消防士)に訪ねると親切にも消防車で先導してくれた。
 1階の受付でY・H会員証を出し1泊分10ドル24セント(税金込)を支払い592号室のキーを受け取った。
 ルームキーはエレベーターに乗る時も必要だ。キーを差し込まないと希望の階のスイッチが作動しない。バスルームにもカギがついていた。あらゆる所にセキュリテイ・システム(安全治安対策)が備え付けられている。それでも泥棒が入るので用心するに越したことはない。ここでは掃除義務も門限もなかった。
 592号室のルームメイトはフランス系カナダ人のロバート(27歳)、レバノン系オーストラリア人のエイブラハム(23歳)だった。
 3人でジャパンタウン、チャイナタウンを歩いた。いっしょに中華料理を食べたり英語で話しているとほとんど国際人感覚だ。
 前日のY・Hではあまり眠れなかったのですぐに眠りに落ちた。


1987年7月12日(日)晴

 この日はチャイナタウンのフェスティバルでもう1日シアトルに留まることにした。
 通りには多くの露店が繰り出し、広場では派手な民族舞踊が披露されていた。チャイナタウンはいつも活気に満ちている。
 昼過ぎルームメイトのエイブラハムと大リーグ野球の試合を見に行った。シアトルにはキングドームという屋根付きスタジアムがある。ダウンタウンから歩いていけるのが便利だ。広大なアメリカ大陸のこと車で行く所が多い。ヒューストンのアストロドームもそうだ。
 どこにも巨大な駐車場があり入り口に近い場所は特定の人しか止められないようになっている。野球場に限らずスーパーマーケットやレストランもそうなっている。特定の人とはハンディキャップド・ピープル(身体障害者)のことだ。駐車場にホィール・チェア(車いす)の表示のある所は、絶対に一般人が止めてはならない。
 キングドームは見た目には大きくないが、中に入るとその広さが実感できる。打球が天井に当たることなどまず無いだろう。
 ゲームは地元シアトル・マリナーズに特大ホームランも飛び出し快勝した。ビール(3ドル)とポップコーン(1ドル50セント)片手に野球観戦。絵に描いたようなアメリカがここにあった。大リーガーたちの肩の強さに目を見張った。
 エブラハムは野球を見るのが生まれて初めてで、ルールが分からず怒って帰ってしまった。世の中、広いものだ。

眠れぬモンタナの夜


1987年7月13日(月)晴

 ニューヨーク目指して出発することにした。

青空とヘルメット

ひとり用の小さなテントでキャンプを始める。そこが家になるわけだからなるべく大きなテントを選んだ方が良いだろう。
(モンタナ州 7月)

 数日前、アメリカ滞在許可が手書きで2週間と書き足してあるのを発見した。ハワイのイミグレーション(入出国管理事務所)で係官が書き込んだのだ。
 アメリカ最北、最大のアラスカ州は見送る事にした。国内線飛行機ならパスポートのチェックがないので心配ないが、モーターサイクルだと何度も国境を越えることになる。さらに新車のためまだナンバープレートが無い。
 AAA(アメリカ自動車連盟)で地図とルートのアドバイスを受けた。窓口の女性はとても親切だったのが印象的だった。
 イエロー・ストーン国立公園を目標にI−90(インターステーツ90号線)を東へ急いだ。シャドー1100にも慣れ130〜150km/hでどんどん走った。燃費は19km/l程度。大きめのガが頻繁にぶつかり黄色い体液が体中にへばりつく。
 猛烈に暑い。気温は35度を超えている。
 ワシントン州を走り抜けアイダホ州まではパシフィック・タイム(太平洋標準時)だ。モンタナ州に入ると時計を1時間進めなければならない。時差越えである。
 暗くなる前にキャンプ場に入った。この時、第一期最大のトラブルに気が付いた。シアトルのY・H(ユース・ホステル)に寝袋を忘れてきたのだ。同室のエブラハムに貸したままだった。シアトルからはすでに700kmも離れてしまった。
 昼間の猛暑がウソのようにグングン気温が下がっていった。大陸性気候に加え高度が高いので気温の差は想像以上に大きい。北部へ行く程気温が低くなるのは当然だが、高度による気温低下はそれ以上なので十分な注意が必要。
 どっぷりと日も暮れ疲れていたので、キャンプ場オフィスで買ったウオッカをあおって寝ることにした。


1987年7月14日(火)晴

 午前2時。あまりの寒さのため目が覚めた。着る物をすべて着て体を丸めてもダメだ。とても寝ていられない。ウオッカの酔いが冷め余計寒かった。ガソリン・ストーブに点火し、チキン・ヌードル・スープで暖をとった。
 今思えば新たに寝袋を買えば良かったのだが、シアトルまで取りに戻る事にした。
 深夜の田舎フリーウェーを走る車はほとんど無く、2台のコンボイ(大型トレーラー)に出会っただけだ。
 深夜でもガソリンスタンドは営業し車社会を支えていた。
 アイダホ州に入るとタイム・ゾーン(標準時間帯)が変わり1時間得したような気分になった。
 徐々に明るくなり心持ち寒さが薄らいでゆく。大洋から逃げて走っているため、ゆっくりと昇ってくる。何かにとりつかれたように西へ西へ走った。
 睡眠不足と疲労で意識がスーと薄くなることがあった。休憩で腰を下ろすとなかなか動けなくなる。
 それでも700kmを7時間で走り切りシアトルに着いた。町全体は静かな朝をいつも通り迎えていた。
 Y・H(ユース・ホステル)の受付で592号室のエブラハムを呼び出してもらうと彼は私の寝袋を持って下りてきた。彼は水曜日のマドンナのコンサートまでの滞在予定だったので会えると信じていた。彼は再会を喜びシアトルに留まれと勧めてくれた。私も急ぐ旅ではないので1泊することにした。
 受付で592号室に泊まりたいと言うとOKしてくれた。Y・H会員証を出すように言われたが、どこを探しても見当たらない。それもそのはずである。私は寝袋だけでなくY・H会員証もシアトルに忘れていたのだ。幸いY・H会員証も手元に戻り、700kmを走ってきたことが全く無駄ではなかったような気がした。

勇気を持ってアラスカへ


1987年7月15日(水)晴

 ひょんなトラブルから再びシアトルで朝を迎えた。
 勇気を持ってカナダへ入国しアラスカへ向かうことにした。イミグレーション(入出国管理事務所)でトラブルが起こるかもしれない。ノープレートで何か言われるかもしれない。様々な思いが頭をよぎる。
 一端ニューヨークに旅立ったのにシアトルに戻って来たのも神のおぼしめしか。
 再びAAA(アメリカ自動車連盟)へ向かった。受付の女性は私を見るなりアッと驚いた。驚くのも無理はない。つい2日前、ひげづらの東洋人がニューヨークへ行くとモーターサイクルで現れたと思いきやその東洋人が再び目の前に立っているのだ。
 寝袋のトラブルのせいで24時間で1,400Kmも走ったことを説明し、目的地をアラスカに変更したと告げるとほとんどあきれていた。
 渡米してすでに17日目、常夏のハワイ州、広大だったカリフォルニア州、緑深いオレゴン州、シアトルの美しいワシントン州、ポテトも食べずに走り去ったアイダホ州、眠れぬ夜のモンタナ州。全米50州の6州を体験した。
 次の目的地は最北、最大のアラスカ州だ。
 モーテル、ユース・ホステル、キャンプ場の利用法も分かり、道路システムやガソリンスタンド(セルフサービスで自分で給油する)にもすっかり慣れてきた。マーケットやレストランでの注文や支払いも苦にならなくなってきた。洗濯物もコインランドリーで片付くので何の不自由も無かった。
 言い換えれば、衣、食、住が日常化し、旅が生活化してきたということだろう。モーターサイクルに積み込める荷物はごく限られているがそれですべてが賄える。
 走行距離はすでに5,000kmだが、私の全米ツアーは今始まったばかりだ。



 
 





EZア・メ・カ
2-1 アメリカ大陸を走り出す
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
www.mike.co.jp info@mike.co.jp

2001.7.29 UP DATE