EZ top image EZ A Me Ca by Mike Yokohama

第2章 全米ツアー

第2期 アラスカ・ツアー(前半)

夏のアラスカ

 アメリカン・ライダーのあこがれの地。49番目に走る州。最後の開拓地。それがアラスカだ。

青空とヘルメット

アラスカまであと少し。青い空と白い雲が私を迎えてくれた。
(カナダ北東部 7月)

 夏のモーターサイクル雑誌には必ずアラスカ特集が組まれる。大自然、道路状況、キャンプ情報が満載される。カナダ・バンクーバーからでさえ3,000kmも離れているにもかかわらず、遠くカリフォルニア州やフロリダ州からもライダー達はやってくる。

 アメリカの北海道といったところか?最大・最北というのも似ている。ただし、スケールが違う。面積が日本の4倍、全米2位のテキサス州の2倍もある。それなのに人口が40万人と極端に少ない。
 渡米前の計画としては、夏は北、冬は南を走り10ヶ月で全米50州(最初のハワイ州も含む)を回るという漠然としたものだった。計画自体がこんな好い加減なものだからアラスカの情報もほとんど持っていなかった。だいたいガイドブックなんて大して役に立たない。事前にいくら熟読したところで行って見るまでは分からない。情報を集めるに越したことはないが、ガイドブックは旅行後に読む方が楽しい。
 アラスカといえば年中凍てついた大地にエスキモーが犬ゾリで暮らしていると思う人がいるかもしれない。
 しかし、夏のアラスカは緑深く花が咲き誇る中のハイウェーをブッ飛ばせる所だ。飛行場で有名なアンカレッジに至っては、フリーウェーが走りカリフォルニアのような暑さだった。最高気温も30度を超える。にわか雨とヤブカに悩まされるのが玉にキズだ。
 出発地に選んだバンクーバーで日系移民のナオに出会い数々の思い出を作ることができた。彼のアパートに5日程、居候させてもらい本当に助かった。
 夏のバンクーバーは晴天が続き、日が長いので観光や保養には持ってこいだ。湿度が低く過ごしやすいので避暑地として別荘のひとつもほしい。


カナダ入国


1987年7月15日(水)晴

 午前中にシアトルを出てカナダへ向かった。国境に近づくにつれ民家が少なくなり、山が深まる感じだ。
 200kmも走ると国境がある。モーターサイクルで国境へ行けるなんて妙な気分だ。いったい国境とはどんな所なのだろうか。
 突然、フリーウェーに料金所のようなものが現れ、車が渋滞し始めた。道路端の芝生の手入れは行き届き、花壇も美しかった。アメリカ・カナダ両国の国旗が風にはためいていた。ドライバーたちはリラックスして車の列に並んでいた。
 窓口の女性の言っていることが良く分からなかった。後で分かったのだが、カナダ市民かどうか聞いていたのだという。アメリカへ再入国するときも同様の質問をされた。イエスと答えると何もチェックせずに通過できるようだ。
 日本のパスポートを出すと紙をはさんでイミグレーション(入出国管理事務所)へ行けと言われた。そこではカナダ滞在期間、所持金、アメリカへ再入国するかどうか、帰りの航空券について質問された。とりあえず2週間の予定だと言うと3ヶ月の観光ビザのスタンプを押してくれた。観光目的の場合は事前のビザ(入国査証)は不用で簡単に入国できる。
 カナダに入国したからといってたいした変化は無い。道路というより路肩がやや貧弱なようだ。それと速度表示がマイル法からメートル法に切り替わる。すなわちアメリカでは55か65だったものが80か100になる。時速65マイル/hは100km/hとほぼ同じなので気にすることは無い。ただ、シャドー1100の速度計はメインがマイル表示で書かれているだけに走りにくい。
 さっそくガソリンを入れてみた。アメリカではガロン(1ガロンは約3.8リットル)売りだったが、リットル売りになるので急に一杯入ったような気になる。ガソリンはかなり高いのに加え1米ドル=1.3カナダドルだったので額面が倍くらい支払うことになる。

 国境を越えたものの目的地のバンクーバーまでは50km以上離れている。
 住宅街に入ってきたが街の名前は、バンクーバーではない。バンクーバー隣のバーナビーでモーターサイクル・ショップに立ち寄った。
 駐車場でシャドー1100をいじっていると変な中国人が近づいてきた。彼は改造したカワサキZ900(Z1)に乗っていた。日本でZ1といえばプレミアムが付いて100万円近くする。北米では"Z"はゼットではなくジィーと発音しなければならない。
 「ナイス・モーターサイクル」と声を掛けてきた。お互いライダー同士だ。しばらく言葉を交わした。
 「アー・ユー・ア・ジャパニーズ?」
と私が聞くと果たして彼はナオという日系移民だった。20歳の時にカナダに移り住んで3年。当然日本語の方が得意なのでそれ以後会話はすべて日本語になった。
 ナオは泊まるところがないならアパートに来ないかと誘ってくれた。アメリカはもちろんカナダには何の知り合いもないので彼の好意に甘えることにした。
 彼のアパートはバンクーバー市内南端の静かな住宅街にあった。4階建ての白いビルの12号室は4階にあった。全部で13室のアパートだが宗教的理由で13号室は欠番になっていた。
 7月15日は海開きの日ということで花火大会があった。私達はグランビル・ストリートを通ってダウンタウン(中心街)へ向かった。
 会場の海岸近くでナオの友人と落ち合った。日本からの留学生や中国人留学生と花火を楽しんだ。
 つい数時間前にカナダに入国したばかりなのにすっかり溶け込んでいた。運よく友人も出来て楽しく過ごせそうだ。

シャドー1100+Z1=2000cc


青空とヘルメット

ナオとの交流はカナダ生活を印象深いものにしてくれた。彼の愛車はカワサキ・Z1。
(バンクーバー 7月)

 ナオと知り合い、彼のアパートに居候しながら過ごした数日間はとても楽しかった。当時彼は植木屋の社長とけんかし失業中で暇を持て遊んでいた。

 晴天の続くバンクーバーをあちこち見て回った。100万都市としてはダウンタウン(中心街)がこぢんまりしていて歩いても回れる。日本人観光客がわんさか押し掛けてくる。日本人相手の店も多く、日本語、日本円でどうぞと書いたふざけた店もある。
 ナオといっしょの時、何度もトラブルに遭った。最初は広大なスタンレー・パークを流している時だった。ハーレー・ダビットソンの白バイに乗る警官がスピード・ガンを持って立っていたのだ。前を走っていたナオだけ27kmオーバーの違反チケットを切られた。公園内は一方通行ながら制限速度時速30kmなのだ。
 最大のトラブルはなんといってもモーターサイクル消失だった。ダウンタウンの路地に違法駐車しておき数時間後に取りに戻ると跡形もなく消えていたのだ。残っていたのはアスファルトにめり込んだサイドスタンドの跡だけだ。
 私のホンダ・シャドー1100と彼のカワサキ・Z1を合わせると総排気量は2000ccだ。重量だって400kg以上ある。
 二人は冷静に考え電話で警察のトーイング・センター(レッカー移動係)に問い合わせてみた。やはりそこに保管してあることが分かった。本当に盗難でなくて良かった。
 バスで引き取りに行くと駐車場の隅に情けなく並んでいた。係員に15ドル25セント支払うと別に15ドルの罰金チケットを渡され後日支払うように言われた。シャドー1100とZ1はそのまま乗って帰ることができた。
 北米ではモーターサイクルも立派な車両と認められ四輪車同様に走ることができる反面、違反にもシビアになっている。駐車違反も例外ではない。大目に見てよ。

 バンクーバーの治安を維持するため、警察官は張り切りすぎるのかもしれない。警察官が好きだというライダーは皆無と言ってよいだろう。
 だが、映画の世界となると話は別だ。主演エディ・マーフィが大活躍する「ビバリー・ヒルズ・コップ 2」を見に行った。当然のことながら日本語の字幕スーパーは無く、セリフの半分は聞き漏らしてしまったが、十分楽しむことができた。
 何もかも巨大な北米のこと映画館も大きい。一つの建物に2〜10以上もの映写室が入っている。人気のあるものは大きな部屋で上映し、なくなれば次第に小さい部屋に移され、いつしか入れ換わるシステムになっている。それでも、映画館は見つけにくい。なぜならケバケバしい巨大な看板広告が出ていないからだ。
 売店には缶ジュースやアンパンは並んでいない。売り物はコーラとポップコーンだけだ。どちらも容器がバカでかく、一口で言えばバケツ。ポップコーンには溶かしたバターがたっぷりかけられ、二人でも十分な量があった。
 中華料理、日本料理を始めいろいろなレストランを楽しんだ。特筆すべきはジャマイカ料理専門店だった。店員はすべてジャマイカ人。壁には原色を多用した海の風景画。極め付けは、レゲエ・ミュージック(ジャマイカ民族音楽で独特のリズムを刻む)のみのBGMだ。ジミー・クリフの曲がガンガンかかっていた。後にジミー・クリフのコンサートを生で見ることができたのも何かの縁のような気がする。
 私はヤギ肉の料理とマンゴー・ジュースを注文したが、店員はヤギ肉は大丈夫かと念を押した。
 5日間の滞在ではブラブラ遊んでばかりいたのではない。CAA(カナダ自動車連盟)で情報を確かめたり、オイル交換をしてアラスカ・ツアーに備えた。
 アラスカ・ツアーについてはロサンゼルスの日系新聞に1987年11月から12月にかけて連載された。以後はその記事を在日日本人向けに書き改めたもの。

深夜の出発

青空とヘルメット

生まれて初めて見た氷河。不思議と寒い感じはしなかった。
(カナダ ユーコン準州 7月)

 アラスカ・ツアーはいろいろな意味で大きな旅行だった。14泊16日で8,500kmという時間と距離は大陸横断に匹

敵する。道路状況、宿泊施設、天候などを考慮するとそれ以上だろう。
 近頃はアメリカ旅行など珍しくも何とも無い。大陸横断するライダーも増え続けている。
 しかし、夏のアラスカの大自然を満喫できるモーターサイクル・ツアーを体験した者は少ない。文字通りラスト・フロンティアであり最高の贅沢だ。
 一応の目的地はアンカレッジだが、モーターサイクル・ツアーは連日の移動そのものが目的だ。
 最初は2、3日でアラスカ国境に達すると考えていたが、実際に達したのは出発後7日目のことだった。なにしろB・C州(ブリティッシュ・コロンビア)を抜けるのに4泊を要したのだから、その大きさには恐れ入った。そのうち数百kmは完全なダート・ロードなのだからタイヤも体力もすっかり消耗してしまった。
 7月19日(日)の深夜、ナオたちに見送られバンクーバーを出発した。国道97号線を北上していた私は猛烈な雷雨に行く手を阻まれた。大雨に加え、山の上で光る雷はあたりを一瞬だけ昼間にする力を持っていた。
 宮沢賢治が言ったように、ライダーの苦手なものは雨と風だ。モーターサイクルは自転車同様の欠点を持っている。特に風の強い日は死の恐怖さえ感じる。
 フルーツ・スタンド(果物販売小屋)の軒下に逃げ込んだ。板切れを拾い、モーターサイクルとで囲いを作った。ガソリンストーブを取り出し暖を取った。レイン・ウェアを乾かしながらうとうとと仮眠を取った。
 未知の深夜の出発直後にこの悪天候に遭った私は、アラスカ・ツアーの成功を確信した。なぜなら、これ以上辛い事は起こらないだろうと思えたからだ。


地獄にシェブロン


 仮眠から覚めると雨は止んでいた。うっすらと東の空が明らんでいた。
 再び北へ向けて走り出した。アメリカ本土やカナダ、アラスカの大都市周辺にはフリ−ウェーが発達している。しかし、カナダ、アラスカの大部分はハイウェーだ。フリ−ウェーというのは無料道路という意味ではない。信号や交差点がなく出入り口が管理されている片側2車線以上に分かれている道のことだ。日本の高速道路はこの意味ではフリ−ウェーである。ハイウェーとは片側1車線ずつの対面通行の道だ。簡単に言うと普通の田舎道。
 何度も睡魔に襲われ、道端にシャドー1100を止めてそのまま寝たこともあった。
 情報通り夏のアラスカは雨が多い。ほとんど毎日のように雨が降った。ただし、にわか雨程度が多いのでそのまま走り続けることができた。
 仮眠を取りながらも800kmを走り、昼過ぎにプリンスジョージの安モーテルにチェックインすることができた。
 翌21日(火)の目覚めは良いものではなかった。無理して徹夜で走るものではない。
 国道16号線を西へ走った。このあたりに来ると車も少なくなり田舎らしさが増してくる。
 国道37号線に入ると極端に車が少なくなった。出来たての路面はとてもきれいで、適当なカーブが続いていた。電線も電柱もなく針葉樹林一色の風景は最高だった。それに加え暑いくらいなのが良かった。
 快調にシャドー1100を走らせていた私は、あることに気が付いた。ガソリンを7割方消費したころだった。ガソリンスタンドがないのだ。37号線に入ってから100km以上走っていたが一軒もなかった。それどころか電線がないのだから民宿もない。ガス欠になったらおしまいだ。予備のガソリンは1リットルしか積んでない。
シェブロン・ガソリンスタンド発見。ようやくガソリンを補給できた。思わず、
「地獄にシェブロン!」
と、ひらめいた。この時以来、シェブロンが好きになった。


五番街のキャンプ場


 国道37号線をさらに北上すると「エクストリーム・ダスト(過激な砂利道)コース・ヘッドライツ(全照灯を使用せよ)」の標識が目に入った。「ネクスト64km」とある。ここから本格的ダートロイドが始まるらしい。
 夏の日は長く、十分明るかったが時刻はすでに7時を過ぎていた。この先、手ごろな所に宿泊施設がある保証はない。
 北上を断念し、シェブロンのあったメディアデイ・ジャンクション(分岐点)まで引き返した。
 ここから西へ60kmのスチワートという小さな村へ向かった。ガソリンスタンド1軒、モーテル2軒の村だが結構観光客は来ていた。
 モーテルは高いので五番街のはずれにあるキャンプ場にテントを張った。普通五番街といえば街の中心地でオフィスビルが乱立しているものだが、この田舎村ではキャンプ場だった。
 バンクーバーを出てから2日で1500kmも走り疲れていたので連泊することにした。キャンプ代が1泊3カナダドルというのも魅力だった。
 キャンプ場は万年雪の山に囲まれていたが、明け方以外は寒くなかった。
 隣のドイツ人ファミリーとすぐに仲良くなれた。私が最初、
「アイン・ショタイン・ビッテ(石を取ってください)」
とドイツ語で話し掛けたからだ。髭を蓄えたお父さんは石を拾う前に両手を大きく広げて驚いた。大都市ならいざ知らず、ここはカナダの山奥なのだ。
 お父さんは石を拾ってくれた上にビールやワインをご馳走してくれた。日本とドイツは「日独伊三国同盟」のころから仲良しだ。
 10歳のミリアンが近づいてきた。彼女はドイツ語しか話さないのでほとんど会話は成り立たなかったが、かわいさには何の影響もなかった。毎年夏はアラスカを旅行しているらしい。
 キャンプ場では私はいつも人気者だ。ただし、子供と老人ばかりなのが残念。


恐怖の遊覧セスナ


1987年7月22日(水)晴

 寒さのため、5時半に目が覚めた。この日は木陰で昼寝をしたり、手紙を書いたりのんびり過ごした唯一の休息日だ。
 私が食事を作っているとドイツ人のお母さんが子供の手を引いて日本人は何を食べるのかと見学に来たりした。
 隣村のハイダーにも出かけた。ハイダーはアラスカ州なのだが、国境は白線一本でパスポートなしで行けるアメリカ合衆国だ。その証拠にアメリカ郵便局があった。
 村で一軒の土産物屋の主人はとても愛想の良いおばちゃんだった。村の人口は70〜80人らしい。
 絵はがきとシールを買ったがカナダドルで支払った。アメリカ合衆国アラスカ州とはいえ、この村にはアメリカの銀行もそして警察もないのだ。

青空とヘルメット

生まれて初めてのセスナ機に乗る。助手席にも操縦桿がついていた。
(アラスカ州 7月)

 キャンプ場でくつろいでいると地元のパイロット・ギーさんがやって来た。スチワートは小さな田舎村だが飛行場があった。いや、なければ生きていけないだろう。
 自分のセスナ飛行機に乗せてやると言うのだ。しかも、無料だという。
 彼と二人で倉庫からセスナを手で滑走路まで押し出した。二人乗りの小さなもので副操縦席にも作動するハンドルやペダルが付いていた。
 時刻は夜10時を過ぎ、あたりは夕闇が迫っていた。ものすごいエンジン音とともに空に舞い上がると雪山の向こう側に再び太陽をとらえることができた。
 野生のヤギや氷河が見えた。スチワートの村はまるで箱庭でキャンプ場のみんなは手を振っていた。ミリアンも元気いっぱいだ。
 前日走った谷底の道がほんの小さな傷跡に見えた。所詮、人間の造った物なんか大自然の前ではチッポケなものに過ぎない。
 セスナはフラフラしながら無事着陸した。正直言って怖かった。なぜならシャドー1100は空を飛ばない。
 何度もサンキューを言い後日、アラスカからお礼の絵はがきを出したが、文法の誤りに気付いたのは投函した後だった。


ダスティな1日


1987年7月23日(木)晴れ一時雨

 早朝、キャンプ場から起き出し国道37号線を北上した。この道はスチワート・グレイシャー・ハイウェーとも呼ばれていた。この道は最悪だった。行けども行けどもダートロードが続いた。針葉樹林を切り開いただけの道が数百km続くだけだ。
 思い出した頃にアスファルトは数十mしかない。何のために舗装したのか疑問だ。今世紀中には完成するだろうか。
 センターラインも路肩も区別がなく、左端(反対車線)を走ってしまうこともあった。対向車は工事用ダンプカーか貨物トラックが多い。通過するとものすごい砂煙が巻き起こり何も見えなくなった。
 トラックの跳ね上げた小石が左親指を強打し泣いたこともあった。レストエリア(休憩所)では蚊やハエが多く困った。体のあちこちがかゆい。
 ガソリンスタンドは一定間隔であるが食料もガソリンも5割方高かった。犬に吼えられるトラブルにはまいった。
 ダートに次ぐダートにはうんざりした。どう頑張っても時速80km以上は出ない。1986年に北海道一周した時、サロベツ原野のダートロードに驚かされたのが今思うとかわいいものだ。それでも進むしかない。モーターサイクルにはバックギアはないのだ。
 ダスティな1日を走り抜いた。ガソリンスタンドでモーテルを聞くと100km先までないという。店員の兄妹は明らかにインディアンの血を引いていた。
 手近にあったボーヤレイク・キャンプ場に入った。テントを張っているとにわか雨が振り出した。おまけに固い地面にピンがささらず、石でテントを固定した。
 雨に濡れ、炊事できず、蚊に刺されてボコボコになった。テントの中でインスタント・ラーメンをそのままかじり、ウィスキーをあおってとっとと寝てしまった。
 これほど悲惨な夕食は初めてだ。


アイアン・ホース(鉄の馬)


1987年7月24日(金)晴れ一時雨

 ようやく広大なB・C(ブリティッシュ・コロンビア)州を抜けてユーコン準州に入った。
 アラスカ・ハイウェー1号線は舗装が良く、時速100〜150kmで走れた。
 ガーフィールド人形を乗せたライダーに出会った。彼の名前はジム。元USネイビー(アメリカ海軍)で横須賀にもいたらしい。
 昔、ジャパンはチャイナに勝ったと言っているので、日清戦争のことかと思って良く聞くと、なんと室町時代の元寇・神風のことなのだ。
 日本語は、オハヨウ、アリガトウ、ゴハン程度しか話せない彼が、日本のことを良く知っているのでたまげてしまった。
 ホワイトホース・ホットスプリング・キャンプ場までいっしょに走った。とても嬉しかった。走りながら話をすることはできないが豊かな気持ちになれた。彼は90km/hをガッチリとキープするのでまどろこしかった。あと10kmアップしてくれたら不満を持たずにすんだだろう。
 なぜ、いつも90km/hをキープするのか聞いてみた。
「90km/hはベストなんだ。マシンにも良い。景色も見れる。ポリスマンも怒らない。130km/hで走ってもすぐに疲れて休むから、90km/hの方が速いのさ」
と自信を持って答えた。
 なぜ、モーターサイクルに乗るのですかと続けた。
 「ある人はモーターサイクルを嫌っている。でも私は好きなんだよ。それに思い出すんだよ。200年前のことを。マイクも見たことがあるだろう。西部劇を。200年前に馬の乗って原野を駆け回った男達のことを。都市にいても田舎にいてもモーターサイクルに乗っていると思い出せるんだよ。モーターサイクルはまさにアイアン・ホース(鉄の馬)なんだよ」。
 私の思考回路はブッ飛び、歴史・風土・文化の違いを思い知らされた。
 彼からは多くの事を教わり記念に初めて見るシルバー・ダラー(1ドル硬貨)をもらった。彼は私の父と同じ55歳だった。


雲の生まれ出づる所


1987年7月25日(土)晴れ一時雨

 寒い朝だった。多分零度以下まで冷え込んだ。ジムさんは一足先に出発していた。
 着込めるだけ着込んで走り出した。カナダはノーへル厳禁なのだが、ノーヘルが許されていてもかぶるだろう。ヘルメットは、危険防止の帽子であるとともに寒さ防止の帽子なのだ。
 寒さのため80km/hが精一杯だった。それでも30分も走らないうちに、ライダーブーツの裏まで冷え切りシャドー1100を止めた。エンジンで手を温めるのに20分もかかった。日本の真冬並だ。
 アラスカツアーで最も寒かったのは、アラスカ北部でもカナディアン・ロッキーでもなかった。ユーコン準州の州都ホワイトホースからヘインズ・ジャンクションまでの100kmの区間だった。
 この区間を私は「雲の生まれ出づる所」と命名した。不思議なことに国定公園にも観光地にもなっていなかった。
 厳寒の朝もやの中、大小の湖というか沼からもうもうと雲が発生しているのだ。空は折り重なる雲が埋め尽くし低く垂れ込めている。
 次々に水面からわき起こる雲であたりは白い。針葉樹林も白くかすみ、モノトーンの世界だ。ものすごく静かだが力強く雲が発生し続けている。アラスカ中の雲のすべてがここから生まれると錯覚しそうだ。
 音も色もない世界で有史以前からの営みが今日も繰り返されている。その中を1台の鉄の馬が走り抜ける。この世のものとは思えない不思議な感覚だ。
 帰りにも「雲の生まれ出づる所」を通り抜けたが同様だった。
 朝早く行くのが良いだろう。ただし、信じられないほど寒い。9月の下旬にユタ州のジムさんの家に押しかけアラスカの話をしたが、彼も「雲の生まれ出づる所」が1番寒かったと保証してくれた。


国境通過


 アラスカとの国境まで300kmのヘインズ・ジャンクション(カナダ・ユーコン準州)で給油していると髭もじゃの変な男が話しかけてきた。
 出身国やシャドー1100の話をした後、彼はついて来いと言い出した。今、会ったばかりの見知らぬ男だ。腰には小振りのナイフを付けている。もしかするとゲイ(同性愛者)かもしれない。私は自分の腰のナイフを確認しながら彼の家へついて行った。
 いきなりビールを出してきた。まだ朝の9時過ぎである。腹が減っていると言うと勝手に何か食べろというのでハムサンドを作って食べた。アラスカ帰りに寄る事を約束し、酔っ払いのままハイウェーに戻り走り去った。
 7月25日午後3時。ついに国境を通過した。バンクーバーを出発して実に7日目だ。
 雷雨や連日のにわか雨、朝の厳寒、悪路のカナダを走り抜いた嬉しさは格別だった。アラスカとはいえ、夏はある。最高気温は30度を超え、蚊が大量発生し、花が咲き乱れる。日中は汗ばむ程、暑くなるが、大陸性気候のため、日較差が20〜30度にもなり朝方は寒さを感じる訳だ。
 ガソリンを補給したが本土より4割も高かった。アラスカは物価が高いと聞いていたがあまりに高い。ただし、セールス・タックス(売上税)が無いのはありがたい。ユーコン準州も無かった。日本も売上税を新設し、国を滅ぼさないことを願う。税金を払うのがおしいのではないのだ。国が滅んでしまうのがおしいのだ。
 アラスカ側の道路は、より整備されていたが片側1車線ずつの対面通行は同じだった。大規模な道路工事のため、2度足止めを食った。工事現場で恐竜のようなブルドーザーが活躍し、しかも運転は綺麗な金髪のおねえちゃんだ。アメリカを実感した。
 トークで安モーテルをチェック・インした。5日ぶりにベッドで眠りたかった。1週間分の洗濯物もたまっていた。
 はいていたパンツまで洗うため、地肌に皮ジャンパー、皮パンツのいでたちでコインランドリーに走った。
 昔、佐世保にいたというエスキモーに金を強請られて困った。私はどこへ行っても乞食が寄って来る。やはり、類は友を呼ぶのだろうか。


北緯65度


1987年7月26日(日)晴れ

 アラスカ・ハイウェー2号線を300km走りフィアバンクスに着いた。
 フィアバンクスは北緯65度でこれより北は四輪駆動のジープ向けの道しかない。ちなみに北海道の札幌は北緯43度だ。
 YH(ユース・ホステル)に泊まることにした。
 キャンプ場に隣接し、トイレとシャワーはキャンプ場のを使うようになっていた。
 日没までには十二分に時間があったので、アラスカ大学フィアバンクス校の博物館へ出掛けた。入場料の3ドルは私にとって高過ぎたが、カリフォルニアから来た青年にレシートを譲り受けタダで入れた。この日はキャンプ場のアメリカ人に炭焼きハンバーガーやビールをごちそうになり格安にすんだ。
 博物館には、グリズリー(灰色熊)、白熊、アザラシなどのはく製、マンモス、クジラなどの骨格、エスキモーの歴史、風俗が展示されていた。
 現代人が構築した歴史は、北部の石油を運び出すパイプラインだけだ。大自然と野生動物がアラスカだ。先住民族であるエスキモーの生活はネイティブ・アメリカンのそれと同様近代文明に押し流されていた。
 係員に写真を撮って良いかと尋ねると、陽気なヤンキー青年は両手を軽く広げ「ゴー・アヘッド」(どうぞ、ご自由に=直訳すると前方に進め)と叫んだ。今となっては笑い話だが意味が分からなかった。語学力の有無は旅行に致命的打撃を与えるものではないが、楽しさには大きな影響を与えるものだ。
 隣のキャンプ場で日系三世と話をする機会を持った。60歳を超えた夫婦がなんと花札を楽しんでいた。血は純粋な日本人だがカナダ人として教育を受けており、男性の方はほとんど日本語を知らなかった。女性の方は日本語がOKで私を助けてくれた。
 移民の存在、歴史、考え方などが少し理解できたような気がした。
 日系三世で日本語を理解し話すことは大変なことだ。ましてや読み書きするのはものすごい努力を要する。
 なぜなら彼らは日本人ではないのだから。



 
 





EZア・メ・カ
2-2 アラスカ・ツアー(前半)
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
www.mike.co.jp info@mike.co.jp

2001.7.29 UP DATE