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熊本普通競輪 第1日目 初日特選 2000年6月10日(

 熊本競輪へは平成5年(1993年)10月の43周年記念以来で、実に7年ぶりの参加であった。熊本の想い出といえばデビュー3年目に全プロ大会ロード競技で熊本市内を出発し阿蘇山を一周する140Hのレースで2位の成績を残したことがあり、また競輪での想い出としては、昭和61年(1986年)2月のダービートライアルレース(1-6-)の決勝で高橋健二選手の捲りに離れた悔しい記憶がある。
 ところで熊本市は私のふるさと福井市と姉妹提携を結んでおり文化交流も盛んに行われている。海外との姉妹提携は近年国際交流という観点から提携を結ぶ都市も徐々に増えて来ているが、日本国内において都市と都市の 提携は大変珍しいとのことである。
 で、なぜ熊本市と福井市が姉妹都市になったかということであるが、幕末の熊本藩士横井小楠(よこいしょうなん)が越前福井藩に招かれ富国強兵策による藩政改革を指導したことに始まり、その後、細川家のいさ姫が福井に嫁に来られたという歴史上の経緯があるそうだ。もっとも歴史経緯を探るまでもなく「西ロータリークラブ」という民間組織同士が青少年の交流を目的とした親交活動を以前からしていたそうで、平成6年(1994年)11月、 正式に両市が提携都市を結び、交流を深めているということである。
 毎年、福井祭りがゴールデンウィーク中にあるが、今年も熊本市長が招かれ、また福井市長も熊本市のイベント に招待されるなどして、両市の関係はここ数年でにわかに盛り上がってきた。
 前検日、選手代表懇談の席上で熊本競輪の開催執務委員長とその話で盛り上がったが、そんなこんなで熊本 は、福井と馴染みのある大変美しい街である。
 前置きが長くなったが、大変縁深い関係にある熊本であるが、競輪の方は散々な結果となった。
 ここまで順調に来た私は今期101点台をマークし、直近4ヶ月間でも99.94点を上げるなど好調を持続していた。
 「忙しい合間を縫ってよくあれだけの成績がとれるな」と、巷の声も聞こえる中、自分でもなかなかのもんだ、 と自画自賛していたが、好事魔多しとはこのことだった。
 初日特選メンバーは、竹内洋(岡山)の機動力を目標に同県岡田浩太に平坂典也(広島)の中国勢、地元の太田黒大心を足場に同県の小山琢磨、井上勝史(愛媛)の九州四国連合軍、そして私は富山の新鋭堀田英利という好目標を得て、その三番手に大阪の森村優が付ける三分戦となった。
 これ以上事故点を付けられない私は、スタートを慎重に見守ったが、S級昇級がかかる地元両者が前へ出る展開となり、やれやれといった感で私は後を追った。
 この6月から競技規則が変わり、400走路500走路ではジャンのバック線まで誘導員を追い抜いてはいけないことになった関係で、私はどの位置が有利か高松宮杯のレースを見て参考にしていたが、どうも500走路では中団の位置が一番戦法に幅が持てて有利な気がしていた。だから、このレースS級昇級がかかる太田黒がきっと前に出るだろうから中団の位置取りをしなくてはと思っていた。位置取りはマーク屋の仕事だ。そしてその読み通りの展開に持ち込み、後は堀田がどこから仕掛けるかだった。ジャンで7番手以下の中国勢が上昇を開始すると、堀田は4番手に切り換え仕掛けのタイミングを計った。堀田は4コーナー手前から踏み込むと、竹内も合わせて踏み込んだ。あまり競り合うと太田黒の思うツボだが、堀田は難なく主導権をにぎって先行態勢に入った。太田黒以下の九州勢は、7番手以下になる絶好の展開。
 私が予想していた通りの展開になった。バックから4番手にはまった竹内が捲くって来るが、私の後輪にかかる程度でストップ状態。後は、私の十八番(おはこ)の「ご苦労様追い込み」で1着ゴールを目指すだけ。だが、車が伸びない。おまけに熊本の直線は「滑走路」と異名が付くほどとてつも長い。私は予想通りの展開になりながら予想だにしなかった番手で4着という散々な着位に恥ずかしい思いをした。
 心の中で自分に言い訳を言ってその着位のことは気にしないように努めた。(色々忙しかったからなぁ、まぁこういう時もあらぁな)と、自己処理。くよくよしても始まらない。勝負師は切り換えが大切。ゴルフでOBを打ったからといって、次のホールにその迷いを持っていったのではまたダメになる。今日はダメでも明日は大丈夫。私は、気持ちの切り換えに終始したのだった。

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