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大垣普通競輪 第1日目 初日特選 2000年11月9日(木)

【教訓・その1】 一瞬のためらいが勝敗を大きく左右する。

 松阪の開催(2000年11月1〜3日)が終わって中4日で大垣(2000年11月9〜11日)を迎える間、特に用事もなかったので久しぶりに練習に集中することができた。
 いつもなら弟子の濱野雅樹と練習するのだが、最近レース日程が入れ替わり立ち替わりあって一緒に街道練習が出来ない状態だった。それで松阪最終日の翌日は土曜日ということもあり長男佳史と二人で90キロ越前海岸を走り、次の日曜日には次男幸司も入り三人で丸岡町のロードコースを100キロ走った。
 二人とも小学校3、4年生の時から練習を付けてきて全国各地で行われるレース会場に連れて行ったのだが、およそ練習相手には程遠く今日まで根気のいる日々が続いた。しかし二人とも今は中学3年生と高校2年生になり、最近ではこちらが練習を付けられるようにまでなってきた。私も一応プロの意地があるから負けじとペダルを踏むのだが、山にさしかかるとひょいひょいと抜かれて行ってしまう。
 ふらふらの状態になって練習を終え、「きょうはこの辺で勘弁したる!」と言いつつ倒れている私を見ると、息子達は「さすがはプロだね、オヤジにはかなわないよ」とあざけ笑われる始末だ。この時ばかりは少々歳を感じさせられたが、まだまだ老いぼれるわけにはいかない。大垣で優勝して「プロの底力」を見せてやらなければならないと思った。

 大垣には今年(2000年)三回目の参加だった。6月25〜27日開催、9月17〜19日開催に続き今回の11月9〜11日開催だった。大垣は今年4月から3号賞金だから大歓迎の競輪場だ。別に北の競輪場だろうが南の競輪場だろうが斡旋のあるところ喜んで参加するが、やはりどうせなら賞金の高い競輪場がいいのが本音だ。しかも大垣は福井から一番近い距離にあり「近くて賞金の高い競輪場」なのだ。松阪から中4日とはいえ、私は練習で約260キロ乗り込んでの参加で気合いも入っていた。
 メンバーは大垣に着いてから知った。いつもは「プロスポーツ」などの業界紙でメンバーを確認して行くのだが、今回はそれが出来ず現地に着いてから知ることになった。特選は、(島田竜二、平田直樹、北田昭志)(松尾淳、兼子義久)(西徹、水谷弘泰)それに(片山慎二、鷲田善一)の4分線に分かれての闘いが予想された。島田は前回21(1失)とS級特別昇級を逃しており近時絶好調でこの大垣にやって来た。地元の松尾も気っぷの良い先行をするし、私は大阪の片山と二人で苦戦を強いられることは覚悟していた。

 期も終わりに近づくと各選手とも事故点が気になり出し、スタートは事故点の多い選手がこらえ切れず前に付くことが多いようだが、号砲が鳴って本命島田が前に出ると平田が続き、私もその後を追った。
 一周すると早くも前から島田 - 平田 - 北田 - 片山 - 鷲田 - 西 - 水谷 - 松尾 - 兼子の並びで隊列が整った。この時点で予想される後の動きは西以下が上昇し、島田を押さえて西がそのまま先行するか、それとも西の上を更に松尾が叩いて先行するかだが、片山は出足が良い選手だから更に巻き返しが出来ないものか、などと考えながら淡々と周回を重ねていた。

 赤板を過ぎ、1センター付近から6番車の西が踏み上げてきた。西は8番車の片山を牽制していたが、そうこうしているうちに松尾が満を持して一気に仕掛けて行った。前に付いていた島田は松尾 - 兼子の後ろにズッポリはまる展開となってしまい、ジャンと同時に我々は後続におかれてしまった。あと一周の4コーナーで片山は西をインからすくうも、すでに時遅し。松尾は快調なペースで先行態勢に入っていて、島田は絶好の3番手。

 最終2コーナー、逃げる松尾 - 兼子の地元コンビを島田が定石通り捲くりに出て、平田 - 北田で追走。その後を片山 - 鷲田で追う展開だった。

 そして、最終4コーナー、ここで私は迷った。普通なら8番車片山のインを突いて、9番車兼子の進路に入るところだが、事故点がちらついてしまった。無理はよそう。一瞬のためらいが勝敗を大きく左右するものだが、今の私の状況を考えると(ここは無理して突っ込むことはない)と思った。
 そのためらいが、結局、着を一つ落とす結果になり6着となってしまった。

 練習を積んできただけに納得のいかない着に腹が立った。自分に腹が立った。きょうの展開なら仕方が無いと思いつつも「納得のいかない着」はやはり悔しかった。

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