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大垣普通競輪 第3日目 A級決勝 2000年5月27日(

弱みを握られた者は辛い立場である

 優勝戦の朝も雨だった。朝食を終えた8時過ぎ「今朝の指定練習はローラー練習でお願いします」という宿舎放送が流れた。三日間とも朝練が出来ないというのは、練習好きな私ならずとも体がだらけてしまうものである。
 宿舎内もひっそりとしており、いつもの活気に満ちた雰囲気はなかった。慌てることはなにもないからである。そして、バンク練習が出来ない雨の日は、ローラー練習をしない選手もかなりいる。というのは自分の出走時間に合わせてどっちみっちローラーでウォーミングアップをするのだから、同じ事を繰り返す必要もない、というのがそのおもな理由である。
 しかし、私は三日間、朝のローラー練習を行った。30〜40分みっちり汗を流した。きのう準優で2着に入ったものの決して本調子とはいえない。サドルの位置もまだ気になっていた。神経質な性格なのである。

 優勝戦、特選から乗ったのは4人だけだった。選抜から4人、そして予選からは今節の優勝候補に挙げられている群馬の新鋭、兵藤一也(82期・22歳)だった。32期生に兵藤信雄という選手がいるが、その息子さんである。
 競輪も昭和23年に誕生してから実に52年の歴史があるが、その間、二世三世選手も数多くデビューした。その兵藤も父の後を追い競輪選手として活躍している。来期S級というから父の信雄選手もどんなに楽しみなことか、心中は察する。

 優勝戦のメンバーは関東4人、南関3人、近畿2人となった。数でも不利だったうえ、選手も私の事故点過多はスポーツ紙、予想紙で周知の通り。ホントに商売がやりにくい。弱みを握られた者はなんとも辛い立場である。
 そんななか、選手紹介中ホームスタンド付近から女性の声援があった。このホームページを見ていつもメールで声援してくれる豊橋の渡辺さんだろうということはすぐに分かった。わたしは軽くうなずくと「これは頑張らないと!」と、思った。
 号砲一発、当然といった具合に松山-鷲田の前受けでレースが始まった。兵藤-阿部-福井-吉田の関東勢がその後ろから、田村-尾形-飯沼の南関勢は7番手からの戦いとなった。
 私はこのレース、ギヤ倍数を52×14(3.71)から49×13(3.77)に上げた。経験上、ギヤ比を上げて好結果を得られたことは少ないが、回転が鈍っている現状、またこの優勝戦は捲りに回されることを予想して、一発それに賭けてみることにしたのだった。
 赤板過ぎ、私のすぐ後ろの兵藤は車間を空けた。力もさることながらレース運びもうまいようだ。
 2コーナー過ぎ、7番手の位置から田村-尾形-飯沼が仕掛けてきた。車間を空けていた兵藤-阿部-福井-吉田ラインもそれに併せてダッシュ。ここまでは予想通りの展開だった。後は松山がどこから仕掛けるかだったが、間、髪を入れず松山は田村-尾形-飯沼を追って3半(3コーナーセンター)から仕掛けに出たが、しかし、兵藤の所まで車を並べることが出来ない。最終1コーナー過ぎで松山はあおられて失速、私は4番車福井の後ろに切り換えるのがやっと。
 ギヤを上げた場合、一回の踏み込みを殺してしまうと、つまり惰性を殺してしまうと極端に脚にきてしまう(負担がかかる)のだ。こういうレース展開なら52×14(3.71)のままで良かったが、最終4コーナーでは私はもう一杯の状態で、準優みたいに中を割る脚力はすでになかった。
 最終回4番手の位置から捲りを打った兵藤が阿部を2分の1輪差で振り切り、前回大宮に引き続き連続優勝を飾った。

 3日間雨にたたられた大垣競輪。前回の熊本の惨劇からすれば、優勝戦に乗れたことでもT良しUとしなければと気持ちを切り換えた。
 このままずるずると事故点のせいで今期が終了してしまうとすればそれまでの実力。私はまた一つ良い勉強をした、と納得した。

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