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富山普通競輪 第3日目 A級決勝 3000年7月3日(

 人間、何事も弱気になると目に見えない敵から一気に責められる。勝つことによって正当化され敗者は否定されるのが修羅場で生きる者の宿命である

 さすがに三日目の朝は起きるのが辛かった。明日もう一日頑張ろうと気を引き締めて床に付いたのだが、体は正直に反応していた。
 1、1着で勝ち上がったからといって満足してはいけないと心に何度も言い聞かせながらも、一方で別な自分が悪魔の囁きのように「オメェさんヨー、もう充分だよ。よくその年で頑張ったよ!なぁファンも選手も納得しているよ。これ以上勝ったら、オメェさん反感喰うぜ!な、分かったか?」と、しつこく語りかけて来るのだった。
 人間、何事も弱気になると目に見えない敵から一気に責められることが、経験上分かっているから絶対弱気なことは考えまいと心に誓っている。が、つい体調不良や精神力が衰えて来ると、つい悪魔の囁きに耳を傾けることになってしまうものである。
 修羅場で生き抜くためには、あくまで貪欲(どんよく)な精神を保たなければならないのである。人から何と言われようが、犬から吠えられようが、勝つことが正義の世界である。勝つことによって正当化され敗者は否定されるのが修羅場で生きる者の宿命である。
 私は、人間界と修羅場の往復をこの26年間繰り返してきた。その回答がそれである。智に働けば角が立ち(反感を喰い)、情に棹(さお)させば流される(負ける)。意地を通せば事故点が付き、兎角に競輪選手は大変なものだということが分かってきた。
 で、田中も私同様、絶対勝負の前に口には出さないが、辛い表情が窺えた。無理もない。連日不利な状況からの巻き返しを強いられ、今日の優勝戦も初日二日目同様、同じような展開が予想されるからだ。ふたりとも1,1着、2,2着で勝ち上がっていながら、こんなに辛い優勝戦を迎えることなど滅多になかった。そして二人は、最後まで気を緩めない覚悟でレースに臨んだのだった。

 優勝戦、特選から生き残ったのは5人だった。近畿は初日同様、田中-鷲田-岡本、西は予選から吉廣(熊本)、高田(岡山)、斉藤(徳島)が乗り、中部は地元富山の堀田-家田-水谷だった。近畿にせめてもう一人ラインを固めてくれる選手が居合わせてくれたならいいのだが、どうもそうはいかないようだ。初日、二日目同様に魔の7番手以下が指定席となりそうだった。
 ついに優勝戦の号砲がなった。他の選手は当然のことながら、私が前に出ることを予測して前に出ないだろう。その選手の読みを裏切って重注覚悟で前に出ないことも考えた。田中の押さえ先行なら堀田のカマしや捲りは十分阻止できるだろうが、しかし、それが出来ない身の辛さがあった。
 そして、堀田は特選同様、先行で臨んで来るハズである。昨日の藤原同様に正々堂々と勝負してくるハズである。堀田とて来期S級昇級が決まっている選手だ。初日のように同じ轍(てつ)は踏まないであろう。ただ、その注文通りに乗らなければならないというのは、どうみても不利だった。まっ、考えてもどうにもなるまい、ここは腹をくくって、田中の巻き返しにすべてを託すだけであった。
 そして赤板、堀田-家田-水谷が上昇してきた。斉藤と吉廣がそれに切り換え、立ち後れた高田もインからすくってきた。その高田の立ち後れが田中の巻き返しに影響したのか、仕掛けが遅れた。ジャンの3コーナー手前から踏み込んだ田中の車の伸びが悪い。だが田中はグングンと加速して堀田に襲いかかった。前半9秒5で掛ける堀田、その上をさらに捲ろうとする田中のスピードは半端ではなく、私は離れてしまった。気持ちの上では絶対離れまいとする一方で、調整不足は否めないものがあった。

 追加斡旋の富山競輪は、11着で終了した。負けたら悔しい。でも、勝負は時の運と割り切るのも長い選手生活では必要なことではあるまいか。一番人気に応えられなかった事は申し訳なかったが、地元の堀田が優勝したことで、富山のファンも喜んでいるに違いない。
 田中と帰る道すがら(北陸自動車道)、私は修羅場から人間界に戻ってきた自分を確認していた。

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