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富山普通競輪 第1日目 初日特選 2000年8月11日(金)

 持つべきモノは、同郷の先行選手だ

 前期(2000年4月〜7月)が終わって、新たな期を迎えた。思い返せば前期はいろいろあった。4月桜が咲く頃、和歌山を皮切りに、7月真夏の太陽の向日町まで、本当に長くつらい期間だった。この間、寝ても醒めても事故点、事故点で、さすがの私も参った。
 しかし、昔のレースと違って落車が少なくなったという面では、身体のことや選手寿命などを考えると必ずしもこの制度が悪いとは言えない。ファンは格闘的レースを期待する面もあるかもしれないが、それによって傷付くのは選手自身である。落車を誘発する過剰な妨害行為を野放しにすることは決して好ましいことではないと思う。過激(野蛮)なレースとなるか、あるいは迫力あるレースとなるかは、紙一重である。両者は似て非なるものであって、ファンが求める競輪競走は一体どこにあるのか、それを探し求めることに、今の競輪の競技規則は右往左往しているような気がしてならない。

 富山には、先月7月1〜3日に追加(119着)で行って今期2回目の参加だった。
 その節は連日同県の田中俊充と乗り合わせ、苦しい戦いだったことが、つい昨日のことのように思い起こされた。今回は後藤純平との参加だった。後藤とも過去何回か連携している。相性は良い方だ。私は田中俊充とのレースを思い浮かべ、今期(2000年8月〜11月)最初のレースに胸膨らませながら、北陸自動車道を北上した。

 初日特選は、地元の宮越大(77期)、山崎俊光(愛知・55期)の前期S級両者と若原英伸(岐阜・68期)の中部勢、森田正寿(宮崎・76期)には、これまたS級から降級の山本剛(高知・52期)と山根泰道(岡山・64期)の西日本勢、そして鷲田 - 後藤の福井コンビには小林健(岡山・67期)が続く三分戦の闘いとなった。
 スタートは宮越 - 山崎 - 若原が前に付き、中団に森田 - 山本 - 山根、そして後藤 - 鷲田 - 小林は、絶好の後ろ攻めの展開となった。
 発走前、私は後藤に森田の走り方についてアドバイスをした。森田とは5月(2000年)の名古屋で一緒に走っており、先行選手にしてはなかなか位置獲りもうまい器用な選手だと知っていたからだった。
 たぶんこの並びになるだろうと予想していた私は「赤板前辺りから(森田は)前団との車間を空け、一気に先行に持ち込むかも知れない」と注意を促していた。果たして、その私の予言は的中し、森田は後藤 - 鷲田 - 小林の上昇に併せて鋭く踏み込んで行った。その勢いは後藤を出させまいとして先行する気配だった。後藤もまさかと思ったに違いない。でも諦めず後藤は必死に森田に襲いかかった。ジャン前の2コーナー過ぎで後藤 - 鷲田が鼻に立った。しかし、私のすぐ後ろに森田がはまった。小林がモガキ合いで千切れたからだ。小林は「待ってー!」と言わんばかりに私の後に追いすがってきたが、ジャンで軽く森田に弾き飛ばされてしまった。

 最終ホームストレッチは、鷲田 - 後藤 - 森田 、森田の後ろは山本と小林が併走状態でその後を山根 - 宮越 - 山崎 - 若原で通過した。宮越は7番手の位置。ここからの捲り返しは困難だろうが、森田が3番手から2コーナー捲くりを打ってくるのは火を見るよりも明らかだった。わたしは後藤との車間を若干空け、その時を待った。
 私も赤板からのモガキ合いでそんなに余裕はなかったが、こうなったら森田の後ろに飛び付くしかない。2コーナー出口、白いユニフォームが視界に入るや私も踏み込んだ。その時、赤のユニフォームが続いてこない。山本が離れている。これはラッキー。 

 最終3コーナー、私は難なく森田の後位にはまった。番手にはまったというものの、ゴールまではほんの僅か。
 呼吸を整える間もなく一応追い込みにかかった。ここで抜けば男を上げると思ったが、私はもう一杯の状態だった。2分の1車輪届かず2着でゴールした。
 勝った森田は強かった。赤板から後藤とモガキ合い、更に二の脚を使って2コーナーからの捲くりを打っての快勝劇は、S級でも十分通用するだろう。

 私は今期(2000年8月〜11月)最初のレースを、後藤の頑張りで2着に入ることができたことを感謝した。
 やはり持つべきモノは同郷の先行選手だ、とつくづく実感したレースだった。

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