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富山普通競輪 第3日目 A級特選 2000年8月13日()

 色々なことが脳裏に浮かび、さすがに平常心ではいられなかった

 準優戦5着。これで岸和田、向日町に続いて3場所連続で優出を逃した。
 福井の後藤純平は力強いレース運びで準優を見事1着でクリアーし優勝戦進出を果たした。そこに私が乗れなかったのは残念だったが、自身の力不足だから仕方がない。最終日頑張るだけだった。

 最終日特選9レースには、初日特選から5人がこぼれた。山本剛、山崎俊光、山根泰道、小林健、それに私と、小林以外は、いずれも粘っこいマーク屋ばかりだった。
 幸いなことに予選から上がってきた兵庫の寺元達也(74期)がいたから一応目標はできた。寺元は徹底先行ではないが、小林以外に機動力を発揮するタイプはいないし、その小林も差し捲りタイプだから後ろ攻めの先行は十分期待が持てた。ただ最終4コーナーまで持ってくれるだろうか、という心配はあっただけに、早めのスパートは分が悪いと思った。
 スタートを行ったのは、山本剛だった。山本とはS級時代何度も一緒に走っており、顔に似合わず強引なマークぶりは良く知っている。面白いもので激しい競り合いをするマーク屋はさぞ怖い顔をしているだろうと思うかも知れないが、それがさにあらず、自転車に乗っていないときのマーク屋は非常に大人しく小柄なタイプが多い。私もそうだ(?)。逆に先行選手は身体も声もでかく控え室では元気がいいタイプが多い。
 この特選は、実際、寺元の先行1車といってもよかったから、私はレースに臨む前から競り合いは覚悟していた。相手はたぶん小林健になるだろうと予想していた。
 というのも1999年2月8日の和歌山A級決勝戦でその小林健にイン粘りされたことがあったからだ。この開催、私は11着で決勝に乗り、愛知の舘泰守(80期)の先行に付けた私は小林にイン粘りされ、結局私が負けて小林3着、鷲田5着になったことがあった。だからその時と同じような展開が予想されたのだった。
 スタート後の並びは山本 - 笹倉 - 神田 - 小林 - 山根 - 寺元 - 鷲田 - 山崎 - 吉野だった。この展開から寺元が動けば山本との競りがあるが、たぶん小林はインを切って私と競るものと考えていた。
 残り3周の青板、前走の山本か小林か、いずれかとの競り合いに気合いを入れ直していたところ、後ろの山崎 - 吉野が前に上昇していった。これはありがたい。山崎も寺元の後ろは競り合いになると読んでいるだけに、自分らがインを切れば、すんなり隊列が整うと思ったに違いない。バックから山崎 - 吉野の上昇に付けて、寺元 - 鷲田もその後に続いた。寺元のT末脚Uのことを考えると出来るだけ遅い仕掛けがいい。
 山崎 - 吉野が山本を被せて鼻に立ったのを確認すると寺元 - 鷲田はさらにその前に出た。あとは小林のカマしを警戒するだけだ。寺元はじっくり仕掛けるタイミングを計っていた。私もその方が良いと思った。何せ最終4コーナーまでもってもらわなくてはこちらも困る。後ろを振り返ると小林が併走しているように見えた。内心(よし良し)と思った。寺元も何度か後ろを振り返り、なるべく仕掛けを遅らせている。
 そして残り1周の4コーナー、寺元もここが限界とばかり踏み込んだ。その瞬間、私は後ろから何か来る気配を感じた。小林だった。その勢いは良かっただけに(シマった!)と思った。小林は併走状態から踏み込んでいたのだ。最終回ホームストレッチ、寺元 - 鷲田の横を小林 - 山根が並んだ。寺元も遅れ気味だが、必死でこらえた。
 私は咄嗟に、小林の後ろの山根に照準を合わせた。流れからみて小林に出来られるのはT長年の勘Uで分かった。熊本の準優ではこれを通過させたが、事故点の呪縛が解かれたいまはその時とは違う。競り合いのターゲット(相手)は、山本でも小林でもなかった。考えだにしなかった山根泰道とだった。
 最終1コーナー、私は山根に体当たりした。1発、2発。久しぶりの体当たりだった。
 相手も1発で飛ぶほどヤワなマーク屋ではない。
 何たって山本同様特別競輪でも活躍した元S級選手である。私は続け様にもう一発集中攻撃をした。すると跳ねっ返りが感じられなかった。わたしは肩すかしを喰らったように遠心力でバンクの外側に膨らむのを感じながら必死でそれを押さえた。
 兎に角、これで小林の後位は確保した。あとは最終4コーナーから追い込みにかかれば勝利のゴール、と思った瞬間、白の山本が捲ってきた。(ウッソー?)
 一難去ってまた一難。油断もスキもあったもんじゃない。私は慌てて今度は山本の後ろに飛び付き、少し離れ気味だった8番笹倉と併走、最終4コーナー、やっと番手を確保したのだった。もうこの時は予備タンクのエネルギーも完全に消費、それでも習性的に追い込み山本と1輪差でゴールした。苦労の末の2着だっただけに嬉しかった。
 この展開で2着なら上出来と思って回っていたら、金網の向こうのあちらこちらから「鷲田、失格だー、失格!、失格!」と野次が飛んだ。
 富山では悪役で不人気の私のこと、どうせまた小林-山根車券を買っているファンからの野次だろうと高をくくって退場門の所まできたら「ただいま3番選手について審議しますので、しばらくお待ち下さい」との場内放送。(おいおいウソだろう?)

 私は自転車から降りると頭を抱えた。
(なんてこったー)夏だというのに冷や汗が出てきた。何かの間違いではないかと思った。確かに山根を押し上げたが、そんな失格するまでではなかっただろうに…。私はクールダウンしながら祈った。(どうぞ神様、仏様、助けてください。お願いします。)
 
辺りには誰もいなかった。クールダウンしているのは私ひとりだった。判定結果は出たのだろうか?熊本の再来か?色々なことが脳裏に浮かび、さすがに平常心ではいられなかった。
 重苦しい時間(とき)が過ぎた。クールダウンもそそくさに控え室の前を横切ろうとすると場内放送があった。判定結果が出るまで長い時間を要したみたいだった。そして裁判官の判決文を言い渡される感じだった。

 「審議の結果をお伝えします。3番選手は失格 (ガーン) とは致しません」

 「失格」から「とは致しません」までの間隔が長かったこと。随分といたずらな言い方だと思った。
 (あー良かった。)これほど感激したことは、ついぞなかった。
 あとでビデオを食い入るように見た。失格にならなかった理由は、私が9番選手に対して内圏線と外帯線の幅2倍以上押し上げていなかったこと。9番選手は故意的に外に走った、ということだった。

 兎に角良かった…。もしこれが失格の判定だったら、来期(2000年11月〜2001年3月)は、2ヶ月間の斡旋停止処分を喰らうところだった。神仏からチャンスを与えられたと思った。
 家に戻ってカミさんにそのことを伝えると「お父さん、気を付けてね!ホント、生活かかっているんだから!」と言われた。
 私は最近、闘争心を優先するか生活を優先するかを考えたことなどなかったが、この時ばかりはカミさんの言葉に素直にうなずいていた。

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