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甲子園普通競輪 第3日目 A級決勝 2000年9月29日()

 流れに沿って自然流でいけば良いのか、本性の赴くまま闘争心振り乱して行くのが良いのか、この歳になってもそこのところは未だに分からない。

 きのうの準優で大暴れしてしまったものだから、事故点もアッというまに増えてしまった。事故点は原則的に予想紙などでは公表しないということになっているから、各自が事故点を計算して頭に入れておかなければならないわけで、その点、相手に自分の事故点がいくつあるか知られないから、競走上は事故点など関係ないそぶりで平穏な顔してレースに臨むことが出来る。

 しかし、現実的に事故点が増えて、座禅修行の切符が身近に迫ってくるとレースにも影響してくる。何を隠そう私も昨日(2000.9.28)の準優で、スタート牽制(第11条)による重注9点、最終2コーナーの斜行(第14条第2項)による走注3点、最終2センターの押上げ(第14条第1項)による走注3点、さらに最終4コーナー過ぎの押上げによる走注3点の合計18点が1レースで増えてしまった。事故点が増えるとこれから後半のレースに影響してくるわけで、マーク選手として辛いレースが続きそうだ。

 決勝は、近畿勢が5人乗った。野山明範(兵庫・53期)、蒔苗拓(兵庫・79期)の地元コンビは準優戦で決めた京都の南大輔に再度照準を合わせ、大和田 - 鷲田の福井コンビ、青井 - 妹尾、野口 - 米山、の4分戦の様相を呈していた。
 人気も割れ、青井 - 妹尾が1番人気も11倍を超えるなど、ファンも何処から買っていいのか迷っているようだった。南の逃げに対して4番手を誰が確保するかがこのレースの重要なポイントだった。

 号砲が鳴った。事故点リミットの私は、牽制があったら前に付く覚悟だった。誘導員が1コーナーに到達しても誰も前に行かないことを見定めた私は、やおら腰を上げてその後を追走した。後続が付いてきたところを見計らってバンク上部に上がって後続を前に押し出そうとしたが、誰もその手には乗らなかった。

 結局、2周回目、大和田 - 鷲田 - 野口 - 米山 - 青井 - 妹尾 - 南 - 野山 - 蒔苗で落ち着いた。このレースは駒切れの4分戦だから前付けしてもそう大した影響はない、と考えていた。青井か野口がインを斬って南以下が押さえてきても大和田が私の思う通りに走れば良い位置は十分確保出来ると思っていたからだ。

 赤板過ぎ、いよいよ上昇を開始してくる時期がきた。バックストレッチで後ろを振り返ると、案の定、青井 - 妹尾と南 - 野山 - 蒔苗ラインが併走しながら上昇してきた。青井がインを斬って4番手の位置を取ることがこの時点で分かった。

 ジャン3コーナー、私は一旦下げた大和田に「インから行け!」と叫んだ。大和田はそれに素速く反応して、インをしゃくって行った。
 4番手を回っていた青井 - 妹尾の内から大和田 - 鷲田が追い上げ、タイミング良く南 - 野山 - 蒔苗も仕掛けたからすんなりと我々は4番手5番手を確保することができた。まんまといった。

 この展開なら、あとは大和田が2角捲りを決めてくれれば私の優勝だっただろう。だが、大和田はそこから行く気配がなかった。再三後ろを振り返り7番車の野口を警戒するだけで一向に捲る気配がない。ようやく3コーナーに入ってから大和田が捲りに行った。だが、もう一つ伸びない。後ろを何度も振り返る余裕があった割には車が伸びてない。

 最終4コーナー、私は中を割ろうとして、大和田のインを突き駆けたが、こんな時に事故点のことが頭によぎってしまう。7月の岸和田準優のときと同じ状況だった。4コーナー突っ込みたくても突っ込めない。勝負は一瞬の躊躇が勝敗に大きく左右するものだ。

 私は結果的にコースをあやまった。ゴールまで踏めずじまいで後ろの野口にも交わされ5着で終わった。
 大和田が2コーナー捲りに行かなかったことより、自分が気持ちの上で消極的になっていたことが不満だった。
 レースは難しい。積極性が有り過ぎれば、事故点の憂き目に遭い、消極的であれば悔いが残る。流れに沿って自然流でいけば良いのか、本性の赴くまま闘争心振り乱して行くのが良いのか、この歳になってもそこのところは未だに分からない。

 いずれにせよ勝敗は時の運。幸運を掴むために明日からまた頑張らなくてはならない。
 帰りの道すがら私は気持ちの整理を付けていた。

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