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松阪普通競輪 第2日目 準優 2000年11月2日(

 意外な所で勝利の女神が微笑んでいたことに、勝負の文(あや)を痛感した

 今回、福井から一緒に参加した選手は、北山剛(B2・58期)と中村文彦(A2・74期)の二人だった。
 中村は今年(2000)5月に鎖骨々折をして、それがまだ完全ではなく初日の選抜戦もまさかの7着に沈み、準優は一緒のレースに組み込まれるものと期待していたが、初日終了時点で目標を失ってしまった。松阪に来る前までは中村の先行に乗って欠場明けの第一戦であわよくば「優勝」をともくろんでいたのだが、そうは問屋が卸さなかった。

 人間、思惑が外れると落胆するものだが、私の場合は貪欲に生きる主義だから「落ち込み」という言葉は見当たらない。それならそれで別の手だてを考えるまでで、ちょっとやそっとの障害では挫折しないタフな精神を持っている。これがカミさんに言わせると「かわいくない」そうであるが、痩せは直っても癖は直らない。無理して「あーどうしよう、ヤル気なくなったわ」などと口が裂けても言わないところに鉄人の鉄人たる主義がある。

 人に弱い所を見せたくないという精神が、いつも心の奥底で屹立しているからに違いない。また、弱音を吐くことによって折角の運も逃げていってしまうようで、だから自分はいかなる時も心の奥底では絶対諦めないという強い信念を持っている。それが無くなったとき、もはや鉄人も錆びてきたのだと自覚するだろう。

 今日の準優8レースで昨日一緒に走った木本賢二が病気のため欠場した。朝練習前、昨日近畿の3番手を回っていた滋賀の前田知機が「やる気なくなった」と選手控え室で溜め息を突いて倒れ込んでいる姿がみんなの笑いを誘っていた。前田にしてみれば昨日特選9着の汚名返上とばかり、今日の準優戦では木本とワンツーをともくろんでいただろうが、その木本が忽然として出走表から消えてしまったのでは、寝耳に水、倒れ込むのも無理はない。  

 私は幸いなことに地元三重の古田義明と岐阜の古田義広の3番手があったから倒れ込まずにすんだのだが、運不運というものはまこと勝負の世界にあっては日常化しているものである。私は古田 - 古田の鉄壁ラインの3番手で回れる準優第10レースに組み込まれて良かったと思いつつ、気合いを入れていた。

 スタートは6番車の藤原が勢いよく飛び出していった。私もすぐ後を追った。隊列は残り3周を示す青板を過ぎて、前から瓦田 - 甲斐 - 藤原 - 古田義明 - 古田義広 - 鷲田 - 篠原 - 真鍋 - 小谷で落ち着き、三分戦の様相を呈した。

 赤板を過ぎて後方7番手から篠原 - 真鍋 - 小谷が動いてきた。ジャンと同時に篠原が瓦田を叩いて先行態勢に入ると、私は古田義明の仕掛けをジッと待った。

 ジャン2センター、小谷の後位に切り換えた古田義明がすかさず巻き返していった。私はその巻き返しに付いて行けるか不安だったが、余裕があった。

 最終ホームストレッチ、古田義明が先行する篠原に並びかけ、「これなら大丈夫」と思った瞬間、「ガシャーン」という金属音がした。何事が起こったのかと思ったが、下がってきた4番車の前輪が破損し今にも崩れそうな状況を見て、その原因が分かった。

 しかし、事は先頭を走る古田義明の後輪にも被害が及んでいて、それが今にも壊れそうな状況だった。一難去ってまた一難。失速していく古田義明にこのまま付いていたのでは後方から捲られる。私は前を走る古田義広が仕掛けないようだったら自分が行くしかないと思っていたが、最終2コーナー、古田義広は満を持して番手捲りを放った。

 (よっしゃー)内心思わず叫んだ。

 古田義明と篠原がいなくなったとなれば、あとは赤のゼッケン3番車瓦田の捲りだけ警戒すればゴールは近い。その瓦田も止まっているようだった。最終4コーナー、私は本来追い込み選手である古田義広の逃げを交わしゴールを目指した。

 枠連4=6 3,370円(12番人気)・ 車連9−5 33,020円(50番人気)のビッグ配当だった。

 自分が1着で出した配当金の過去最高額は、2000年4月15日和歌山競輪初日特選の車連9−4 30,770円だったが、その記録を更新したことになった。

 自分が1着でこんなに(配当が)付くものかと、人気のなさを痛感するとともに、意外な所で勝利の女神が微笑んでいたことに、勝負の文(あや)を痛感した一戦だった。

 

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