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福井普通競輪 第3日目 A級決勝 2000年11月20日(月)

 【教訓・その4】 人生、成るようにしか成らないときもある。

 準優で中村文彦を残せなかったので、決勝は初日同様厳しいメンバーとなった。松尾淳 - 網谷 - 星野 - 神田の中部勢と田村淳史を足場とする吉田 - 栗田の関東勢に対して、近畿は私と梶原だけとなったが、しかし、この決勝でも梶原との連携はなりそうで、機関車のいない私はどうやって闘ってやろうかと色々と策を練っていた。

 昨日の準優戦を終えた時点で今期(2000年中期)の事故点は合計54点。大垣、松阪と二場所連続事故点無し、というのも私にとっては異例で、それはこの福井の初日、二日目と入れると8出走連続無事故という大記録(自慢にならないが)を打ち立てたのだ。

 そして、これこそはこの福井の決勝戦の為に残しておいたのであって、この緻密な計算を「用意周到」と言わずして何と言おうか。まさにこの不利な決勝のメンバーを想定し見越していたかのように、実弾一発(走注のこと)だけは残しておかなければならないと思っていたのだった。

 ただ、競輪は何が起きるか分からないから出来ることなら競り合いは避けたい。なぜならあの恐ろしい黄檗山の座禅修行は死んでも行きたくない。だが、地元の福井。知り合いのファンも数多く来ているなかで、消極的なレースは絶対したくなかった。

 私は前期(2000年4~7月)の最終戦、向日町の最終日の時と同じようにどういう作戦で闘うか思い悩んでいた。そんな心の葛藤が続く中で出した結論は、中部勢が前受けなら田村 - 吉田 - 栗田の4番手で直線勝負、関東勢が前受けになったら松尾 - 網谷 - 星野 - 神田の番手勝負と決めたのだった。もし松尾が押さえて駆ける展開になった場合は、同じ北陸の網谷(富山)と競ることになるが、こればかりは仕方が無い。まさか中部4人の後ろは回れないだろうし、関東の4番手に付いたまま9番手に下げる事もできないだろう。私は正直なところ初日特選同様、松尾以下中部勢が前受けになり、関東勢が押さえて駆け、4番手で直線勝負になる展開にならないものかと数珠を片手に天を仰いで祈った。(初日2着、準優1着と勝ち上がって十分地元ファンも満足していることだろう、ここは一つ無難に)と思う反面、(いやいや何としても優勝してやる)という気持ちが入り乱れていた。 

 2000年中期最終戦最終日の号砲がなった。6番車の神田が出て、私もそれに続いた。

 スタートして誘導員を追いかけるとき脚が重かった。調子の出来不出来はスタート直後の脚が軽いか重いかで大体分かるものだ。きょうの決勝は重かった。私は丁度1年ほど前からギヤ倍数を51×14(3.64)から52×14(3.71)に上げたのだが、最終日は疲労と強倍数のせいで重たくなることが多い。三日間を軽々と踏めるには、やはり相当の乗り込みと筋肉の状態を完調にしておかなくてはならない。私はスタート直後、パーンと脚にきていることを実感したが、気持ちの上で負けないよう気合いを入れて走っていた。

 周回の並びは、前から田村 - 吉田 - 栗田 - 梶原 - 松尾 - 網谷 - 星野 - 神田 - 鷲田となった。初日特選と違う並びとなり関東勢が前受けとなった。私にとっては嫌な並びとなった。松尾が押さえて駆ける展開だから予定通り網谷と勝負しなくてはならなかった。
 あと2周の赤板表示の少し前辺りから私は網谷の横に追い上げていった。すると網谷はそれを予期していたかのようにスッと車を下げすぐアウトから来た。私はインで競る方が良かった。なぜならアウトから押し込むと重注を取られる可能性が多いからである。インから一発の押し上げだけなら走注ですむから私は(うまくいった)と内心思った。

 松尾の駆け方はジャン前から一気に踏み込んで前に出ることが分かっていたから遅れないように注意しなければならなかったが、併走状態で松尾の仕掛けに付いていくのはインの関東勢に接触しそうで危なかった

 そして、ジャンと同時に松尾が先手を取り、その後を私と網谷で続く展開となった時、私はついに今まで使わなかった伝家の宝刀を抜いた。使えるのは一発だけだ。網谷とは同じ北陸の仲の良い間柄だが、ここは勝負だ。老いぼれとはいえ百戦錬磨で培われた私の体当たりは相当なもの(だったと思う)。私の強烈な一発で網谷は中に浮き、私は松尾の番手を確保した。あとは松尾が仕掛けてくれれば。(早く駆けろ!)何度も心の中で叫んだが、松尾は後ろが私だという事を知ってか、なかなか仕掛けない。そうこうしているうちに網谷が今度は私をインからしゃくってきた。(シマッた!)
 
網谷は再度アウトから追い上げてくると思っていたからインを開けたままだった。最終ホームストレッチ、やっと松尾が踏み込んで行ったが、私はこれ以上は網谷を押し込むことは出来なかった。
 驚策を持って薄笑いを浮かべる黄檗山の坊様の顔がちらついたからだ。
「万事休す」とはこのことだった。予期しないレース展開となった。私の予定では網谷を一発で仕留め松尾の後ろを回り、4コーナー粘る松尾を交わして高々と手を挙げる構図を予想していたのに…。

 最終2コーナー出口で網谷を競り落としたものの、松尾の踏み直しに千切れて行った。脚が重かったことと競り合いにパワーを要しエネルギーが底を突いていた。何とか追いつかねばと思った瞬間、田村 - 吉田が強烈な捲りで松尾に襲いかかっていった。私は一気に力が抜けた。自分が立てた作戦は失敗したと思った。松尾が田村にこんなに簡単に捲られるとは思ってもみなかったからだった。後でVTRを観たら田村は併走の4番手だった。これでは仕方がなかった。作戦の失敗というより、関東勢に流れが向いたレースだった。
 それより事故点のことが心配だった。ジャンで網谷を一発押し上げた走注は仕方無いが、ホームから最終2コーナーまでの網谷の競り合いは事故点が付かないだろうか。もしそれが走注なら、3点+3点=6点でキッチリ合計60点で黄檗山である。大丈夫だろうと、2階の選手控え室に戻った。嫌な時間を待っていたが、一応、選手管理課のMさんに聞いてみた。
「どうでしょうか?走注は一個ですよね」すると「どうでしょうかね。でも、ジャンのアレ、重注かもしれませんよ」

 ガー えっ?ウソ?冗談でしょ?私は一瞬青ざめた。「まさか一発だけですよ」と私が言うと、「でもふらつきましたからね、5番車」と、管理。

 もし重注なら54点+9点で一気に60点を突き抜けだ。もしそうなら、あのおぞましい黄檗山だ。薄笑いどころか大笑いで坊様が驚策を両手で構えて待ちかまえている姿が思い浮かんだ。脂汗が出てきた。
 どうぞ神様仏様お助けを!神のご加護を!もう悪いことは致しません。
 
富山と同じく祈った。

 しばらくして、管理のMさんが窓越しに、無造作にこう言い放った。

 「やっぱり重注でしたわ」

 私は、力が抜け、その場に倒れて込んでしまった。【教訓】人生、成るようにしか成らないときもある。

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