瞬時の判断で最善のコースを選択するのは、追い込み選手の技量の差である。
【レース経過】
人気の地元松尾が前に押し出される形でレースがスタートした。松尾
- 鷲田 - 山本が前受けとなり、神開 - 平城 -
藤野が中団、桑原 - 中村 -
山根が後方に待機する三分線となった。
あと2周の赤板を過ぎ、桑原 - 中村 -
山根が、松尾の突っ張り先行を警戒して早めに上昇してきた。
松尾が誘導員を切って桑原 - 中村 -
山根の4番手まで車を下げるかに、中団にいた神開 -
平城 - 藤野も桑原 - 中村 -
山根の4番手に切り換え、ジャンの2センターでは、前段に桑原
- 中村 - 山根ライン、その後方、インに松尾 - 鷲田 -
山本ライン、アウト神開 - 平城 -
藤野ラインが併走状態となった。
4番手併走の松尾はインに包まれながら、最終周回を迎えた。最終2コーナー、松尾は、先行する桑原
- 中村 -
山根のインを突き、山根と併走となった。アウト併走の神開も松尾がインを突いた時点で捲りに出た。
8番車鷲田は、インを突いた松尾には付いていかず、捲りに出た神開に切り換えた。
松尾が混戦を征し1着でゴール。2着には3番車中村後位から追い込んだ9番車山根が入線した。
【レース感想】
私がA級に落ちてから3年ぐらいになるが、これまで一度もヨーロッパ(4,6,8番車ユニフォーム)を着たことがなかった。しかし、今回初めて8番車ユニフォームを着ることになった。それだけ今回は、レベルの高い選手が参加しているということだったが、前期S3の平城浩次、神開浩士郎、山本剛、また、中村泰啓、藤野光吉、山根泰道などもいて、横の動きに関して言えば、S級戦と何ら変わらない強者達が揃った。
幸いなことに、地元の松尾の後位が空いているということで、私は迷う事なく松尾後位を宣言した。
しかし、心配なことが一つあった。というのも前回から中3日でこの岐阜に参加したのだったが、その間、練習らしい練習が出来なかったからだ。果たして松尾に付いていけるだろうか、という不安がよぎった。
前検日、記者の取材に「3場所前の岐阜(4月13~15日)が100%の出来だとしたら、今回は60%ぐらいの出来かな」とコメントしたら、翌朝のスポーツ紙に、「鷲田から弱気なコメントが返ってきた」と紹介された。事実、そう、弱気だった。
数々の修羅場をくぐり抜けて来たが、この5月(2001年)の忙しさといったら過去に例がないくらい殺人的な忙しさだった。しかし、それでもプロたる者、どんな状況においても最善を尽くさなくてはならない。私は、意識を奮い立たせ、松尾後位を死守すべくレースに臨んだのだった。
スタートしてみると、意外に脚は軽かった。走る前の心配をよそに、これなら大丈夫かも、と自信が沸いてきた。この初日特選、私にとっての勝敗の分かれ目は、最終4コーナーのコース取りだった。マークした松尾が最終2コーナーからインを突いたとき、5番車の神開が捲くって出たのに切り換えた判断は良かった。結果は、煽られて捲り不発となったが、4車併走状態の最終4コーナーで、8番車の私の取るべくコースは、3番車と4番車の中だった。
事実、私の後方から追い込んできた6番車の藤野がそこを突いて3着でゴールしたのだから、瞬時の判断で最善のコースを選択するのは、追い込み選手の技量の差である。
この差は、動体視力が影響してくるものと思われる。あの天才マーカーの井上茂徳は、この動体視力が優れていたと思われる。
兎に角、危うく落車しそうになったけれど、平成12年(2000年)7月3日富山優勝戦以来の9着とはいえ、なぜか安堵の感に浸っていた。
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